辻仁成「太く長く生きる」(65)「新年に思うこと」

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パレロワイヤルの夕刻。

 ◇ ◆ ◇  

 一生というが、「一つ生きる」と書くこの言葉が私は好きだ。決して「二生」ではない。一生は二度経験することができないということであり、だからこそ、この一度限りの与えられた人生を今日精いっぱい生きようということになる。また、当然のことだが、歩いてきた人生を後戻りできる人間はいない。後悔はできてもやり直せる人間はいないのだ。だからこそ、この一度限りの人生を、精いっぱい生きようということになる。

 ◇ ◆ ◇  

 この新しい一年に特別な決意はない。今年もまた一つ生きることを切実に頑張ってみたいと思う。階段を一段上ることの大切さをやっとわかるようになってきた。二段跳び、三段跳びだとその瞬間は早いけど、疲れてしまって途中で休んだり寝込んだりしてしまう。休んでいるうちにコツコツと上って来た人に追い越される。あれ、どこかで聞いた話じゃないか。

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 健康や長生きも同じことがいえるのかもしれない。健康に気を付けるというけれど、毎日全力で気を付けると疲れてしまうので、私は毎日少しずつ気を付けていきたい。とりあえず、去年の暮れからお酒を減らしてみた。やめると決めると苦しくなるので、少しずつ年齢にふさわしい感じで減らしている。まずはビールを買わないというルールをこしらえた。でも、いきなり大好きなビールを断つというのではつらすぎるので、外では飲むが家では飲まないと決めた。家では飲まないと決めるだけで半分の量になる。これが功を奏してか、ビールそのものを飲まなくなった。そして、たまに外で飲むと、これがまた美味うまい! 家では飲まない作戦は、すでに半年も続いている。ビール依存症だった身体がビールから少し離れることができた。同時に体重も減った。でも、誤解のないように、決してやめたりはしない。

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 運動も、毎日走ろうと決めると苦痛になって3日で走らなくなるので気が向いた時に走るというイージーなルールにした。雨の日や寒い日は走らないと決めている。これが功を奏してか、晴れた日などは10キロくらい平気で走ることができる。毎日、少しずつ少しずつ決めたことを一段一段上っていくのがいい。実はこれ、小説の書き方に似ている。今日、明日で私は新作小説を書きあげるのだが、書き始めた時は真っ白だったワードも、今では12万字の文字で埋め尽くされている。もうゴールが見えているので、ここからはこの12万字がすべてを押し上げてくれる。でも、厳しかったのは3万字とか4万字あたりだった。この辺りで筆が急に重たくなる。でも逆を言えば、こういう時こそが大事なのだ。そういう時、自分に向かって「ここをしっかりと越えられたら、あとは自然にゴールが見えてくる。急がないで、一行一行を大切に上っていけ」とささやく。

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 我が家は4階にある。残念なことに、120年前の古い建物なのでエレベーターがない。60歳を目前にする男には、ここの昇降は結構こたえる。しかし、上り始めたら私はすぐに足元を見るようにしている。足元だけを見て、一段一段着実に上がっていこうと言い聞かせる。これがバカにできない。気が付くと4階についている。先ばかり気にしていると、まだかまだか、とうんざりする。未来は見ない。僕は小説を書く時も人生も、足元だけを見て上る。時々、我に返ってワード左下の文字量を見て驚く。気が付けば、前回見た時よりも1万字も増えていたりするからだ。

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 長く生きていても蔑視を受けることもあるし、敬意を払われないこともある。そういう時には、そういう人たちを見ないようにしている。全ての人間が自分の理解者になることはないし、みんなにいい顔はできない。自分をないがしろにして周囲に合わせて生きることほど、健康に悪いことはない。

 

今日のひとこと。 『大切なことは「一つ生きる」という地道である。』

辻さんプロフィール写真2016年10月21日WEBマガジン用

辻 仁成(Tsuji Hitonari)
 東京生まれ。1989年『ピアニシモ』ですばる文学賞を受賞。1997年『海峡の光』で芥川賞、1999年『白仏』のフランス語翻訳版「Le Bouddha blanc」で、仏フェミナ賞・外国小説賞を日本人として初めて受賞。著作はフランス、ドイツ、スペイン、イタリア、韓国、中国をはじめ各国で翻訳されている。著書に 『太陽待ち』 『サヨナライツカ』 『右岸』 『永遠者』 『クロ工とエンゾー』 『日付変更線』 『息子に贈ることば』『父Monpere』『エッグマン』『立ち直る力』『真夜中の子供』 など多数。新刊に『人生の十か条』(中公新書ラクレ) 。
 ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野でも幅広く活動する。現在は拠点をフランスに置き、創作に取り組む。パリ在住。映画監督・音楽家・ 演出家の時は「つじ じんせい」。
 2016年10月にウェブマガジン「デザインストーリーズ」を開設。デザインと世界で活躍する日本人の物語、生きるヒントを届ける“ライフスタイルマガジン”。辻編集長のインタビューはこちら

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