辻仁成「太く長く生きる」(46)「親心」

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辻38回目写真

「ランニング途中に撮影した一枚。パリはすっかり春です。」

 

 ◇ ◆ ◇  

 夜明け前、不意に寝室のドアが開きました。なんだろうと慌てて起きると暗がりに息子が立っていて、怖い夢を見た、と言うのです。息子と書くと小さな子を想像されるかもしれませんが、もう身長は私を超えています。シングルファザーになった4年前、彼はまだ10歳の少年で、私の胸の高さほどしかありませんでした。このわずかな期間の成長ぶりには目を見張るものがあります。それでも、私の中ではいまだにずっと小さな子供なのです。

 「幽霊の夢だった。怖かった」

 私は、大丈夫、眠れないなら寝なくていいからもう少し横になっていなさい、と諭しました。ベッドから出て息子を子供部屋に送り届け、しばらく一緒にいてあげました。

 ◇ ◆ ◇  

 息子との年齢差は45歳。この差は一生縮まりません。私の心配事はただ一つ。自分が元気なうちにこの子を社会人にさせること、一人前の人間にさせること。しっかりした大人に育て、世の中に送り出さなければならないわけです。つまり、それまでは死ねないということ。私が健康に気を使うのは、ただこのことのためだけです。

 ◇ ◆ ◇  

 正直、生きていると面倒くさいこと、大変なことの連続です。シングルファザーになった後、何か大きな目標を失ったような喪失感に包まれましたが、もしかしたら、あのぼんやりとした空洞の自分は、世に言ううつ状態だったのかもしれません。その中で、自分にとって生きる意味を投げかける光は息子でした。この子の幸せを考えない日はありません。この子が大人になって、どのような人生を歩むのだろう、と心配しない日はないのです。人間ですから、様々な大変が押し寄せてくるでしょう。それらに負けずに、生き抜いてほしい。そして、幸せになってほしいと願うわけです。自分の最後の大仕事は子供を世界という大海原に出帆させることでしょう。そのためにはまず、自分が元気でいなければならない。自分が病気になったら一番大変になるのは息子なのですから。そのことを考えるところに私の健康維持の原点があります。

 ◇ ◆ ◇  

 長生きをしたいのは死にたくないからではありません。私は作家になる前からずっと死ぬことを想像して生きてきました。不謹慎な話ですが、死を想像するのが楽しかったのです。死というものの意味を知りたいと躍起になったことが一時期ありました。哲学書を読みあさったこともあります。しかし、そこに回答はなかった。当然です。誰一人死んだことのない人が、それらを書いているのですから。偉人の本に描かれている死は、全て生きている人間の空想でした。死ぬまで人間は誰一人死を経験できないという寸法です。しかし、この不条理の中に真実があります。死を恐れるのは人が幸せだからです。家族ともっと一緒にいたい、自分だけ知らない世界に行きたくない、と思うから死が恐怖の塊となるわけです。この世界を呪い、人間を嫌い、人生に絶望していれば死はそれほど怖くないでしょう。そこにすべての終わりを見つける人間がいても不思議ではありません。

 ◇ ◆ ◇  

 半生を振り返ると、私が死を恐れていた時期はとっても幸福だった時代なのです。それが終わり、息子と二人で生き始め、彼の成長を見ながら、私はその頃とは違う死へのためらいを持つようになっています。もう少し時間をください、と心の底で願っているのです。この子を世の中に送り出すまでの猶予がほしい。最低でもあと10年は元気に仕事をさせてほしい。願わくば、あと20年は息子の近くで生きたい。彼が幸せになったのを見届けて死にたい。死ぬことはもう怖くない。でも、許されるのなら「幽霊の夢を見て怖い」と言ったこの子が社会に出て家族を持ち、幸福な環境を作り上げるまでは見届けてやりたいのです。

今日のひとこと。 『親心、命が尽きても子のそばにあり』

辻さんプロフィール写真2016年10月21日WEBマガジン用

辻 仁成(Tsuji Hitonari)
 東京生まれ。1989年『ピアニシモ』ですばる文学賞を受賞。1997年『海峡の光』で芥川賞、1999年『白仏』のフランス語翻訳版「Le Bouddha blanc」で、仏フェミナ賞・外国小説賞を日本人として初めて受賞。著作はフランス、ドイツ、スペイン、イタリア、韓国、中国をはじめ各国で翻訳されている。著書に『太陽待ち』『サヨナライツカ』『右岸』『永遠者』『クロエとエンゾー』『日付変更線』『息子に贈ることば』『パリのムスコめし』『50代のロッカーが毎朝せっせとお弁当作ってるってかっこ悪いことかもしれないけれど』『父 Mon Père』『エッグマン』など多数。近著に『立ち直る力』(光文社)。
 ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野でも幅広く活動する。現在は拠点をフランスに置き、創作に取り組む。パリ在住。映画監督・音楽家・ 演出家の時は「つじ じんせい」。

 2016年10月にウェブマガジン「デザインストーリーズ」を開設。デザインと世界で活躍する日本人の物語、生きるヒントを届ける“ライフスタイルマガジン”。辻編集長のインタビューはこちら

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