辻仁成「太く長く生きる」(37)「外国語と日本語のあいだで」

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

500辻37回目写真

エッフェル塔を真下から見上げてみた。

 

 ◇ ◆ ◇  

 外国で子供を育てる中で一番の苦心は何かと問われるなら、外国語の中で子を育てるということに尽きます。外国でも日本語学校に子供を通わせ、いずれ日本に帰るのであればそれほど労苦はないでしょう。もっとも大変なことは外国語世界の中で生き、子育てをすることです。息子はフランスで生まれているので、保育園、幼稚園、小学校、そして現在通っている中学校までずっと現地校にてフランスの教育を受けてきました。彼の第一言語はフランス語なのです。日本語も流暢りゅうちょうですが、フランス語の方がもっとよく理解することができます。昨日、夕食の時、現在はシングルファザーですから二人きりの夕食なのですが、不意に息子が「そういえば、今日フランス語のテストで、クラスで一番になったんだよ。日本人なのに」と言い出したのです。ごく普通のつぶやきだったので、こちらも、へえ、よかったね、頑張ったじゃん、としか言えませんでしたが、再びごはんを口に運んだ瞬間、ぐっと感情がこみあげてきて、思わず泣きそうになりました。それがどんなに大変な道のりだったか、この大変さは本人にしかわからないことでしょう。彼がフランス語を獲得するまでの道のりは相当に厳しいものでした。一歩間違えると、精神を病んでいたかもしれない綱渡りの連続だったのです。 

 ◇ ◆ ◇  

 日日カップルの子として息子はフランスで生まれました。親は二人ともフランス語を話せません。保育園入園と同時に、息子のフランス語との格闘が始まります。家の中では日本語と決めました。間違ったフランス語をしゃべると彼に悪い影響を与えてしまうからです。保育園が終わり、幼稚園に入りました。夫婦は先生にたびたび呼びだされることになります。「この子は一言も幼稚園で話さないのだけど、家でもそうなのか?」という質問です。「家では日本語なので」と説明しました。「じゃあ、フランス語が理解できてないのかもしれない」という懸念を言われました。けれど、どうすることもできません。フランス語の家庭教師を頼み、特訓が始まりました。とても素晴らしい先生で、エベルソルト先生はいまだに息子の家庭教師を続けてくださっています。彼女との出会いは息子にとってラッキーでした。親が喋れない分をカバーしてくださったのです。 

 ◇ ◆ ◇  

 そして、小学校の低学年の時、息子は不意にフランス語を喋りだしたのです。その時のことを私は生涯忘れることができないでしょう。せきを切ったように突然息子の口からフランス語が飛び出してきたのですから。先生から呼び出しがあり、「もう大丈夫ですね。彼の中で言語のみ分けができたのでしょう」と言われました。蓋を開けてみると、彼の頭の中にはフランス語の領域がきちんと存在していたわけです。けれども、両親が日本人ですから、彼の言葉の間違いを細かく直してやることができません。算数や音楽や図工の成績はいいのですが、フランス語や作文の成績がよくありません。細かいフランス語の間違いのせいで成績が伸びないのです。そんな時に、離婚問題が起こります。彼は周囲が心配するほどに心を閉ざすようになります。なんとか中学に上がることは出来ましたが、成績はぐんと下がり、私はまた教師に呼び出されました。「小学校はそれでよかったかもしれませんが、中学は実力社会です。このままでは落第することになるでしょう」やはり、フランス語のせいでした。エベルソルト先生の力を借りて、私は息子と向かい合ったのです。まずゲームをやめさせ、予習復習を徹底させました。「落第をしたら、下の子たちと机を並べることになる。それでもいいのか? 一緒に頑張ろうよ」と脅かし、同時に、励ましました。もう一度、二人三脚がはじまったのです。そして、昨日、彼はクラスで一番になりました。13年間の時間を要しました。私が泣いたことは息子には内緒です。まだまだこれから大学まで登っていかないとならないからです。日本語もやらないとなりません。二人三脚は続きます。しかし、フランス語でクラス一になったことは息子に大きな自信を与えました。13歳の息子に、私は異国で生き抜く強さと自信をもらったような気がします。 

今日のひとこと。 『子育ては親育て』

辻さんプロフィール写真2016年10月21日WEBマガジン用

辻 仁成(Tsuji Hitonari)
 東京生まれ。1989年『ピアニシモ』ですばる文学賞を受賞。1997年『海峡の光』で芥川賞、1999年『白仏』のフランス語翻訳版「Le Bouddha blanc」で、仏フェミナ賞・外国小説賞を日本人として初めて受賞。著作はフランス、ドイツ、スペイン、イタリア、韓国、中国をはじめ各国で翻訳されている。著書に『太陽待ち』『サヨナライツカ』『右岸』『永遠者』『クロエとエンゾー』『日付変更線』『息子に贈ることば』『パリのムスコめし』『50代のロッカーが毎朝せっせとお弁当作ってるってかっこ悪いことかもしれないけれど』など多数。近著に『父 Mon Père』(集英社)。
 ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野でも幅広く活動する。現在は拠点をフランスに置き、創作に取り組む。パリ在住。映画監督・音楽家・ 演出家の時は「つじ じんせい」。

 2016年10月にウェブマガジン「デザインストーリーズ」を開設。デザインと世界で活躍する日本人の物語、生きるヒントを届ける“ライフスタイルマガジン”。辻編集長のインタビューはこちら

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

辻仁成「太く長く生きる」