辻仁成「太く長く生きる」(13) 友人、大病からの「生還」

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長生きは心の安定と穏やかな日常から

 ◇ ◆ ◇ 

 行きつけの寿司すし屋に行きました。もう10年ほど通い詰めているので大将とも友達のような間柄です。しかし、その大将の様子が変なので、どうしたの? なんか変だね、ときましたところ、わかります? 実はね、がんなんですよ、と返ってきました。

 「肩と首のリンパとか肺とかに、4か所くらいにあって……。なんかステージ4だとか言われてさ、びっくりしているんですよ」

 あまりの呑気のんきさに私は驚きました。働いている場合じゃないでしょ? と怒ったくらいです。もちろん、その直後、彼は店を別の料理人に任せて治療に専念することになります。しかし、その後どうも連絡しづらく、時々、ラインメッセージを送るものの、どうしたらいいものか、どうやって励ましていいものか分からず、連絡も途絶えがちになっていました。抗がん剤の治療を受けているというのが最後のラインだったと思います。ステージ4、そして何より、彼の癌はリンパにもできていて転移が早いものだそうです。5センチほどの大きさで4か所にあります。相当な治療を要するレベルじゃないだろうか、と悲観しました。仕事好きな大将のこと、今すぐ店に戻り寿司を握りたいに違いありません。なんとか励まさなきゃ、とは思うのですが、さすがに励ます言葉が見つかりません。 

◇ ◆ ◇

 癌だよ、と告げられてから2か月ほどがったある日、私は勇気を振り絞って、電話をしてみたのです。すると、グッドタイミングやわ、と大将の元気な声が飛び出してきました。

 「辻さん、いま、病院なんだけどね、癌が消えたんですよ」

 私はきつねにつままれたような感じになりました。

 「抗がん剤治療を受けていたんだけど、薬があったみたいで、いま、先生がね、5センチの癌が1センチ以下になっている。もう大丈夫でしょうって言われてね。来年頭からはまた働けるようになりますよ」

 「そんなことがあるの? 」

 小説家なのに、このような返答しかできませんでした。どうやらこれは本当だったようです。放射線治療は受けておらず、彼は髪の毛もふさふさのまま。彼が受けていた抗がん剤は一回で数万円もする高価な薬、2か月使い続けていましたが、彼はたぶん、ほとんど支払っていないはずです。フランスでは癌になると社会保険(セキュリティソシアル)が働いて、100%癌治療が保障されるのだそうです。 へんな言い方ですが、女性は髪の毛が抜けた後のカツラの代金も出ますし、全員病院へ行くためのタクシー代も支給されるのだとか。癌とある種の難病だけ社会保険で100%カバーされる仕組みになっています。

 保険体制がしっかりしているフランスでは公立病院の場合、医療費はさほど負担にはなりません。その代わり、消費税は日本と違い20%です。税率も高いと思います。でも、こういう話を聞くと、消費税が高くてもしょうがないかな、と思ってしまいますね。癌になってもあまりお金の心配をしなくていいのですから。年金制度もまだ十分機能していますし。フランスの大学も全てが国立大学で学費は無料みたいなものです。出産も公立病院で出産する場合はお金がかかりません。

◇ ◆ ◇

 大将は年明け1月まで様子を見た後、医師の判断で仕事に復帰する方向だそうです。なんとなく日本では考えにくい話だと思いませんか? 高額な抗がん剤をただみたいな金額で治るまで使い続けることができる公的医療保険体制って素晴らしいですよね?

 大将のケースはそれでも非常に珍しいケースだったと思います。周囲の友人らもみんな驚いていました。でも、こういうこともあるのだから、奇跡は起こるのだと信じてみる気にもさせられました。大将のうれしそうな声に、思わず涙があふれそうになりました。

今日のひとこと。 『人は死ぬまで、あきらめる必要はないのです。

辻さんプロフィール写真2016年10月21日WEBマガジン用辻 仁成(Tsuji Hitonari)
 東京生まれ。1989年『ピアニシモ』ですばる文学賞を受賞。1997年『海峡の光』で芥川賞、1999年『白仏』のフランス語翻訳版「Le Bouddha blanc」で、仏フェミナ賞・外国小説賞を日本人として初めて受賞。著作はフランス、ドイツ、スペイン、イタリア、韓国、中国をはじめ各国で翻訳されている。著書に『太陽待ち』『サヨナライツカ』『右岸』『永遠者』『クロエとエンゾー』『日付変更線』『息子に贈ることば』『パリのムスコめし』など多数。近著には『50代のロッカーが毎朝せっせとお弁当作ってるってかっこ悪いことかもしれないけれど』(主婦の友社)がある。
 ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野でも幅広く活動する。現在は拠点をフランスに置き、創作に取り組む。パリ在住。映画監督・音楽家・ 演出家の時は「つじ じんせい」。

 2016年10月21日にはウェブマガジン「デザインストーリーズ」を開設。デザインと世界で活躍する日本人の物語、生きるヒントを届ける“ライフスタイルマガジン”。辻編集長のインタビューはこちら

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