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[鰐淵晴子さん](上)天才バイオリン少女、10歳で映画デビュー、御曹司と結婚…衝撃的な写真集も
オーストリア人の母と日本人バイオリニストの父の家庭に生まれた鰐淵晴子さんは、幼いころからバイオリニストとして活動し、10歳で映画デビュー。それから多くの映画やテレビドラマに出演し、女優として活動を続けてきました。一度は良家に嫁ぎましたが、一転アメリカで撮影した生涯一度の衝撃的な写真集が賛否両論で注目を集めたことも。華やかな世界で自分の生き方を貫いてきた若い日々について聞きました。(聞き手・渡辺勝敏、写真・秋元和夫)
4歳からバイオリンレッスン、1日5時間以上
――お父様は日本人バイオリニスト、お母様は留学中に知り合ったオーストリア人のチター奏者というご家庭のお生まれですね。
私が生まれたのは終戦の年の4月。父の 賢舟 は兵隊に行っていて、母のベルタは茨城県に疎開していたそうです。その時に戦闘機が来て防空壕に避難した時に産気づいてしまって、一人で産んだと聞いています。どうやって一人で処置したのか。私が生きているのが不思議なくらいです。戦争が終わって父が戻り、現在のNHK交響楽団などで活動していました。バイオリニストでいらっしゃった黒柳徹子さんのお父様とご一緒だったそうです。
――ご自身も幼いころから、バイオリンなどの英才教育を受けたそうですね。
家の1階にはバイオリン室とピアノ室、鏡張りのバレエレッスン室があって、まず、4歳のころから父のバイオリン指導を受けるようになりました。練習は少なくとも1日5時間。13、4歳のころ松竹と専属女優の契約を結ぶまでずっと。父自身は自分でやりたいことがあるので、教えることに興味はありません。でも、母は、「晴子は大丈夫、何か持っているから教えて」と父を説得したそうです。母からはピアノの指導も受けて、バレエや声楽もやっていました。母はいとこに有名な女優がいて、自分も女優になりたかったんです。ですから、子どもには何か表現する人になってもらいたいという思いが強くて、私につきっきりでした。
小学校にもあまり行けず、練習と演奏旅行
――「天才バイオリン少女」ということで、幼いころからご両親と演奏旅行で全国を回っていたそうですね。
5、6歳になると、父と一緒に人前で演奏するようになりました。初舞台は日比谷公会堂。バッハのドッペルコンチェルトを父と2人で弾きました。そのころから日本全国を回り始めましたね。うちにいる時はレッスンと勉強。学校にはあまり行けなかったので、先生が家に来て勉強をみてくれていました。そんな生活ですから、近所の友だちと遊ぶなんていうことは一度もなくて、ほかの世界は全く知りませんでした。
そのころを思い出すと、稽古ばかりの苦行の日々でしたね。飼い犬と遊ぶ時間が息抜き。でも、のめり込むように演奏できて、私ってすごいと思える瞬間は幸せだったかもしれません。多摩川沿いの自宅の近くに巨人軍の練習場があって、毎朝練習開始の掛け声が始まると、「晴子も練習を始めよう」と父にバイオリン室に連れていかれたのを思い出します。
――練習と演奏旅行ばかりの生活というのは幼い子どもにはかなり大変そうですね。その当時の楽しかった思い出というのは何かありますか。
演奏旅行に行くと、みなさん駅で出迎えてくれて、まず、大量のサインをしなければいけません。それも大変なんですけど、どんなに疲れても演奏会のための練習が待っています。すべて終わって、旅館で夕食をつついていると、「あなたも飲みなさい」と言って母がコップにビールを少しついでくれるんです。ほんの幼いころからですよ。ビールの国から来ている人ですからね。4分の1ぐらい無理やり飲まされます。おいしいかどうかなんてわかんなくて、ただ、バタンキュー。その瞬間が和やかで楽しかったぁ。なんだか生き生きした時間だったと思います。
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