ウェルネスとーく
医療・健康・介護のコラム
[タレント 新田恵利さん](上)恵利に「ありがとう」と言ってからいくね…約束した母 6年半の在宅介護と別れ
「何でこんなことができないの?」 言葉をぶつけたことも
――新田さんにとって、どんなお母さんでしたか。
冗談が好きで明るくて、どちらかというと能天気な母でした。大人らしくない大人。介護が必要になる前から、私とは仲が良かったんです。
私は17歳のときに父を亡くしています。それからは、きょうだいで母を支え、いつしか大黒柱は私になっていました。自分では「小柱だ」と言っていましたが(笑)。だから、若い頃から、私が母を守る立場になってはいたんです。
それでも、介護が始まった最初の1年は、母に対し、「何でこんなことができないの?」なんて、嫌な言葉をぶつけることもありました。母が衰えていくことが、受け入れられなかったんですね。
――認知症も進んでいったのですね。
ひ孫の存在を忘れたり、私の主人のことを忘れたり、ご飯を食べたのを忘れたり……といったことはありましたが、自分の子どもたちのことは、最後まで認識していたと思います。ただ、最後の1年半くらいは、記憶が更新されていないように思います。あるときには、「私は6年も寝たきりなの?」と私に言いました。
私たち家族は幸せだった
――看取りもご自宅で迎えられたんですね。
「ありがとう」と「ごめんなさい」は言える人に……と、子どもたちに教えてきた母は、「最後は、恵利に『ありがとう』と言ってからいくね」と約束してくれました。言葉を発するのも難しい状態になりましたが、母は私を見て、そして兄を見て、「あっ、あっ」と懸命に伝えようとします。3、4回、それを繰り返してあきらめてしまいましたが、母はちゃんと約束を果たしてくれました。
亡くなってから火葬までに5日間ほどあって、きちっとお別れをすることができました。母の前から兄が動こうとしないので、主人に兄を連れ出してもらい、私も母と二人きりの時間を過ごすことができました。
独身の兄は、それまでは母と会っても話題がなく、ほとんど会話がなかったのですが、介護が始まってからはその関係も変わり、よく話すようになりました。その分、私の心の負担は軽くなって、いいバランスの家族になりました。家族の介護をすることにならなければ、そのほうがいいのかもしれません。でも、母の介護をした6年半の間、私たち家族は幸せだったと思います。
これから介護をする人には、一人で抱え込まず、大変なら周囲に“言いふらす”ことをおすすめします。友人でも、パートナーでも、SNSでもいい。誰かとつながることで、心を楽にしてほしいです。
にった・えり 1968年生まれ。埼玉県出身。85年、おニャン子クラブ会員番号4番としてデビュー。「セーラー服を脱がさないで」のフロントメンバーを務め、翌年にはソロデビュー曲「冬のオペラグラス」がヒットした。おニャン子クラブ解散後もタレント、女優として活躍。2014年から6年半、寝たきりになった母親を介護した経験をもとに講演活動なども行っている。
2 / 2
【関連記事】