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モデル田中れいかさんが語る「私を支えてくれた」児童養護施設…インタビュー詳報
虐待や貧困が理由で家庭で暮らせず、児童養護施設などで「社会的養護」を受けて暮らしている子どもたちは全国に約4万2000人います。
児童養護施設出身でモデルの田中れいかさんは、施設にいた頃や、悩みながら自立を模索した経験について、情報発信する活動を展開しています。4月17日の読売新聞朝刊「顔Sunday」で紹介した田中さんにじっくりお話を聞きました。
姉と2人、パジャマ姿で家を出た7歳の夜
「7歳の小学1年生の時でした。今でも母がケンカで叫んでいた声は覚えています。母が家を出た後に残された子どもたち3人のうち、姉が家事を頑張っていました。ある日、台所で洗いもの仕事をしていた時に、床やじゅうたんを水浸しにしてしまいました。父は『出ていけ』とどなり、姉は本当に出ていきました。私も姉についていきました」
「2人ともパジャマ姿で、まず交番に行きました。時刻は深夜0時ごろでした。そして児童相談所で一時保護され、ベッドがある部屋で一晩過ごしました。結局1か月半ほどこの一時保護所で過ごし、そして東京都世田谷区の *児童養護施設 『福音寮』で暮らすことになりました」
「慣れるのは早かったと思います。不安になっている暇がないというか、不安を出すよりも順応しようという思いが強かったのだと思います。当時の福音寮には同じ年の子どもが多かったので、なじみやすかったです」
保護者のいない児童や虐待されている児童らを養護したり、退所後の自立のための相談、援助をしたりすることを目的とした施設。全国で約600か所あり、入所手続きは児童相談所が公的な責任のもとで行っている。
「仲のよい友人には、私が施設で生活していることも打ち明けました。友人の反応は『そうなんだ』というあっさりしたもので、気に留めている様子はありませんでした。私自身はウソをつき続けるのは苦しいタイプです。例えば、高校生の時、お弁当は自分で作って持参していくわけですが、周囲から『なんで自分で作っているの?』ときかれます」
「関係が浅い友人には『親が放任主義なので』とごまかしていましたが、親しい友人には『施設にいるので自分で作っている』と伝えました。ほかにも『遊びに行くときは施設に門限がある』ということも伝えていました」
「施設では小学校5年から高校3年生まで、毎週1回30~60分、ピアノを習っていました。高校時代はアルバイトを二つ掛け持ちでしていました。お金は携帯電話の支払いとかに充てていました。部活はしていなかったので、時間は何とかやりくりできました」
ケンカもしたけど職員の助言で進学決意
「高校生になると、職員とはケンカすることもありました。ささいなケンカです。朝起きられない時には、テレビを見たり、遊びに行ったりしたらダメというルールがあったのですが、それに私は反発してケンカしていました。そんな職員に進路のことでは助言をもらいました。『れいかちゃんなら進学できるよ』と言われ、次第に進学しようと考えるようになりました。職員の声がなかったら、迷っていたかもしれません。私は保育科のある短大に決めました。毎日施設の中で、幼い子どもたちと過ごし、『これが仕事になるならいいな』と、自然と考えるようになったわけです」
「高校では進学志向の生徒が多かったです。早稲田・慶応を目指す人が赤本を開いているような熱気がありました。でも『私はそこまで強い思いで進学しようとは思わないな』って感じていました。そして『自分は本当に進学したいのかな』という思いもありました。施設の中では、『早く社会に出たい』という考えの人が多かったです。じっくり考えると給料が高い大卒がよい、ということになるのかもしれません。しかし施設の職員はライフプランナーではないので、その指導はあまりなく、施設内は就職志向が強かったのだと思います」
「施設を離れて *ケアリーバー となり、短大には進みましたが、保育士になるのか、モデルになるかを悩んでいた時期がありました。そこで芸能に詳しい人に相談することにしました」
「モデルについては、ファッション誌の影響で、中学生のころからあこがれを抱いていました。モデルの仕事を求めて営業活動も始めました。ファッションショーとかにも参加しました。そしてミス・ユニバースの事務局の人と知り合い、茨城県の大会に出場することになりました。父も茨城に住んでいたので、父に自分の思いを見てほしかったという思いもありました」
児童養護施設や里親などの社会的養護のケアから離れた子ども・若者のこと。原則18歳で施設のもとを離れる子どもたちが、社会の中で自力だけで生きていくことは難しいことから、支援の必要性の議論が高まっている。
「SNSの普及と同時に、社会的養護を受けている当事者が次々と匿名で経験を話すようになってきました。例えば『入所中の高校3年生です』という具合で、発信するわけです。次第にメディアの取材を受ける人も現れてきました。でも、悲惨な虐待体験ばかりが取り上げられていて、施設の実態やその後の苦労が見えない状況を目の当たりにし、自分の経験を伝えることに葛藤を覚えながらも、情報発信をしたいと思いました。私自身も社会的養護、児童養護施設、子どもの権利などの勉強会に出席していました。色々な専門家はいるけど、分かりやすく発信している人はなかなかいなかったので、私がそれをしてみようと思いました。それが本であり、講演です」
「今は、ひとまず社会的養護の各施設の実情や、里親についての知識を、興味のある人と共有できるようになりたいと思っています。その一環として、施設を巣立つ子どもに家電・家具を届ける活動を展開するNPO『プラネットカナール』では、活動に必要な動画を編集したり、システムにデータを入力したりと、作業を手伝っています。大阪府の一般社団法人『ゆめさぽ』では代表を務めています。児童養護施設の高校3年生を対象に、受験費用として最大7万円支援する活動をしています」
「将来したいことを書き留めた雑記帳があります。施設を出て間もない私は、『継続して関わるライフプランナー的な存在になりたい』と書いていました。人から聞いて学んだことを、後に何にも生かせないというのは嫌なので、雑記帳に書いたことを思い出し、具体的に結果を出すように努めています。2020年4月に始めた社会的養護の専門情報サイト『たすけあい』や、ユーチューブでの動画配信は、私の目指していた情報発信の一つの形です。誰でも悩みは年齢によって変わってきます。年齢の変化に応じた情報提供をしていきたいなって思っています」
不器用に心配してくれる父…「苦しいだろうな」と見方変わる
「私が繰り返し読む本に、本田健さんの『20代にしておきたい17のこと』があります。すてきだなと思うのは『20代のうちに両親と和解する』というパートがあることです。すごくよいメッセージだと思って実行しています。優先順位はまず、自分のことです。余裕があったら家族のことですね」
「その本をきっかけに『メールをしよう』とか『誕生日の手紙を書こう』とか、『会いに行こう』とか思うようになりました。虐待した父への感情は複雑です。施設に来たばかりの時は『父には会いたくない』と思っていました。でも施設を出るときに、父がお菓子を施設にもってきて『ありがとうございました』と職員に礼を述べている姿に接しました。『れいかは本当に今後もうまくやっていけますか?』と心配している姿も垣間見ました」
「『不器用だけど、私のことを考えてくれている』ということが分かったので、父への見方が変わっていきました。でも父にはまだ本を送っていません。心の準備ができていないからです。社会的に見れば『虐待してしまった親』なので、お父さんは苦しいままなのかなと想像したりします」
「自分のエピソードを用いて社会で戦おうとは思っていません。ただ知りたいと思った人に、知りたい情報を届け、知識の共有はしていきたいと、考えています。本でも、施設で暮らす休日のことや、お小遣いのこととかの日常を紹介するだけでなく、施設の状況をデータで示したり、施設職員についても紹介したり、多角的に児童養護施設を知ってもらう工夫をしました。施設の子どもたちに、『自分の望む道を進んでいけるようになってほしい』という考えが基本にあります」
「そのためにも、施設職員さんには変わらず子どもと向き合って、雑談や情報を交換してほしいと思います。私の場合は、悩みがあると就寝時間以降に職員室を訪ね、職員と1~2時間も話し込んでしまうことがありました。私はこの時間に支えられました。そして、これからの施設がより良い場所となるためには、心の支援が重要です。人によってはトラウマの治療が必要ですし、進路に悩む人には、なりたい自分になるための相談できる仕組みが増えるといいと思います」
「施設と地域との交流の余地もまだまだあると思います。例えば、ママさんたちの子育て相談に乗るとかは、施設の得意分野のはずです。職員は専門知識がある人が多いので、地域で知見を共有できることは強みです。施設を開いてこういった取り組みを重ねれば、地域に児童養護施設を発信するチャンスにもなると思います」(取材は2022年2月末に行いました)
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