文字サイズ:
  • 標準
  • 拡大

ウェルネスとーく

医療・健康・介護のコラム

[フリーアナウンサー 町亞聖さん](下)座布団が血で染まり…子宮頸がんの母を家で看取った20代

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

 くも膜下出血で倒れた母親を高校時代から介護してきたフリーアナウンサーの町亞聖さん。障害を負いながらも明るく元気に暮らしていた母親が子宮けいがんに侵されていることが分かったのは、8年後のことでした。がん患者は病院で亡くなることがほとんどだった時代に、自宅で取ることを決断した町さんに当時を振り返っていただきました。(聞き手・飯田祐子、撮影・中山博敬)

病名の告知で悩み

  ――大学卒業後は、日本テレビのアナウンサーとして忙しい日々を送っていたと思います。まだ介護保険もなかった時代に、どのようにしてお母さんの在宅介護を担っていたのですか。

 その頃には、妹も大きくなって手伝ってくれるようになりましたが、私が皆の朝ご飯と母の昼食を作ってから出社、仕事が終われば一目散に帰宅して夕食の支度、という生活でした。

 母はくも膜下出血の後遺症で右半身まひと言語障害を負い、車椅子の生活になりました。それでも私たちは、母が生きているだけでうれしかった。5人家族の中心には、いつも母がいました。夕食を作らなければならない私と妹は、外でデートする代わりにそれぞれの交際相手を家に連れてきて、皆で食卓を囲んだものです

 障害はあっても、心身ともに健やかな母との穏やかな日々。それが一変したのは、1998年の初夏のことでした。

 母の車椅子に敷いた座布団が血で真っ赤に染まっていたのです。すぐに近所の産婦人科に連れて行くと、医師から「なんでこんなになるまで放っておいたの」と言われました。これが事実上のがん告知でした。

 病名は、末期の子宮頸がん。どうしてこれほど病気が進むまで気づかなかったのか。悔やんでも、悔やみきれません。

  当時はまだがんを告知する時代ではなく、母に病名を告げるかどうか悩みました。言語障害のため自分の気持ちを上手に表現できない母に治らないがんなんだと伝えても、嘆き悲しむことも家族に弱音を吐くこともできません。私ならば、やりのこしたことのないようにしたいので告知してもらいますが、先生も「いつか分かる時が来たらお母さんに伝えましょう」と言ってくれたので、告知しないで治療をスタートさせました。

1 / 4

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

wellnnesstalk1-200

ウェルネスとーく

 あの人が、いつも生き生きしているのはなぜだろう。

 健康、子育て、加齢、介護、生きがい…人生の様々なテーマに向き合っているのは、著名人も同じ。メディアでおなじみの人たちが、元気の秘密について語ります。

ウェルネスとーくの一覧を見る

最新記事