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ココロブルーに効く話 小山文彦

医療・健康・介護のコラム

【Track18】駅のホームから転落寸前、大切な人の声が聞こえた―うつ病の夫の危機を救った妻の口癖―

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もう着地したい…

 翌日、ノダ保健師のセッティングで、当時、会社の産業医を務めていた私は、タカシさんと面接しました。

 会社のストレスチェックでも目立った所見はなく、健診でも特に異常は指摘されてきませんでした。温和な性格で、同僚や部外からの人望もあります。仕事のストレスはあるにしても、タカシさんだけが強く感じているものではなさそうでした。

 最近の彼の不調につながる可能性の高いものは、やはり夏からの不眠です。それに続いて、何事をするのも 億劫(おっくう) で疲れやすい、というタカシさんの状態は、身体面の精査は必要なものの、うつ病の初期を疑わせるものでした。私は、その旨をタカシさんに説明し、総合病院のストレス科(精神科)へ紹介しました。

 面接を終え、いつもより早い時間に退社したタカシさんは、駅の階段の上り下りが、いつになくしんどく感じられました。重く鈍い足どりの割に、不思議なほど大量の汗をかいていました。

 産業医は「健康を大事にしていただくことが、今の部長の大仕事だと思いますよ」と言います。頭では理解でき、気遣いへの感謝の気持ちはあるものの、一方で「もう若くないから、そろそろ(今のような重責は)勘弁してほしい」「もう、着地したい」という悲観的な本音に、自分自身が埋めつくされていくようでした。

電車が入ってきた瞬間、思わず手足の力が抜け…

【Track18】駅のホームから転落寸前、大切な人の声が聞こえた―うつ病の夫の危機を救った妻の口癖―

 駅のホームに着いても、自分に対する不甲斐なさで途方に暮れるタカシさんの視線の先には、さびた線路と石ころしかありませんでした。しばらく、うつむいたまま、そこに立ち尽くしているうちに、だんだん意識が朦朧としてきたタカシさんは、心の中で繰り返しつぶやいていました。

 「もう、着地したい……、着地したい……」

 次の電車がホームに走りこんで来たとき、タカシさんは、思わず手足の力が抜けるような感覚を覚え、あやうく膝から崩れ落ちそうになりました。

 その瞬間でした。

 「遅かったわねぇ」……、「遅かったわねぇ」……。

 妻のアカリさんの声が、何度も何度もはっきりと聞こえたのだそうです。

 「遅かったわねぇ」は、毎日、帰宅したタカシさんを迎えるときの妻の口癖でした。

 とっさに我に返ったタカシさんは、なんとか両足を踏ん張り、立ち位置の後方に尻餅をつきました。線路内への転落という最悪の事態は免れました。駆けつけた駅員に抱えられ、プラットホームの内側に運ばれました。近くに居合わせた数人の乗客も手伝い、タカシさんはベンチに座らされる格好で、たくさんの「大丈夫ですか!」という声にうなずきながら、少しずつ冷静さを取り戻していきました。

 「すみません。大丈夫です」

 そう答えながら、乗客の誰かが差し出してくれたスポーツドリンクを一口飲むと、手足の力もよみがえってきました。その様子に駅員も乗客たちも 安堵(あんど) しましたが、その後は、電鉄会社の自動車で自宅まで送り届けてもらったそうです。

 その車中で、タカシさんは、「もしもあの時、アカリの声が聞こえなかったら、線路に落ちていた……」と、事態の一部始終を懸命に振り返っていました。

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小山 文彦(こやま・ふみひこ)

 東邦大学医療センター産業精神保健職場復帰支援センター長・教授。広島県出身。1991年、徳島大医学部卒。岡山大病院、独立行政法人労働者健康安全機構などを経て、2016年から現職。著書に「ココロブルーと脳ブルー 知っておきたい科学としてのメンタルヘルス」「精神科医の話の聴き方10のセオリー」などがある。19年にはシンガーソング・ライターとしてアルバム「Young At Heart!」を発表した。

 今年5月14日には、新型コロナの時代に伝えたいメッセージを込めた 新曲「リンゴの赤」 をリリースした。

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