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[タレント 飯田圭織さん](下)モーニング娘。が絶好調の時期、今思うとつらかった……芸能界は戦場、いつも競争だった
1998年に「モーニング娘。」のメンバーとしてメジャーデビューした飯田圭織さん。その年末には「NHK紅白歌合戦」にも出場して一躍人気グループに。2005年にはグループを卒業後もソロで歌手、女優やタレントとして活動してきました。25歳で結婚し、出産してからは子育て中心の生活をしています。現在は、小学2年生の息子と幼稚園の娘の母。子育てやモーニング娘。時代について聞きました。(聞き手・渡辺勝敏、写真・中山博敬)
オーディション会場で室蘭の同じ産院生まれの「なっち」と出会った
――モーニング娘。のころについて聞かせてください。もともとアイドルを夢見ていたんですか。
幼いころから歌が好きで、3歳のころからアイドルになりたいと言って、近所のお祭りとか、公園の砂場などで歌っていたんです。松田聖子さんや中山美穂さんに憧れましたね。でも、北海道室蘭市生まれの札幌育ちで、どうすれば芸能人になれるのかわかりませんでした。アイドル雑誌を毎週買って、その端っこにあるオーディションに応募していました。でも、「第2次審査は東京」となるので無理。テレビ東京系の「ASAYAN」が札幌でオーディションをしてくださったので、それが人生最大のチャンス。電車で200円ちょっとで会場に行けるんですから。
――そのオーディションがきっかけで「モーニング娘。」としてデビューしたわけですね。
1次は書類審査で1000人を超えるような応募があったそうですが、2次審査に残ったのは、20~30人でした。当時は、安室奈美恵さんのようなギャルブームで、きれいなお姉さんが多かったんですが、私はまだ15歳でお化粧もしていなくて、素朴な女の子がポツンという感じでした。もう1人、素朴な感じの子がいて、それがなっち(安倍なつみさん)でした。「年も同じだね。えっ、室蘭出身なの? 私も室蘭生まれ」なんていう話をしたのを覚えています。生まれた産院も同じで誕生日も2日違い。もう、初めから仲間のような親友のような感じでした。
人気アイドルになるという夢がかなっても満足感はなかった
――1998年にメジャーデビューすると、その年には「NHK紅白歌合戦」に出場する人気者に。翌年には「LOVEマシーン」が大ヒットしてトップアイドルになりました。夢が最高の形で実現したわけですね。満足感はありましたか。
それは全然ないんですよ。人って満足しないぜいたくな生き物なんだなって、改めて思います。スターになりたくてスターになって、目指したCD100万枚の売り上げを達成して、「大きなステージで歌いたい」って、横浜アリーナ公演も実現しました。でも、メンバーで話をすると、「あの時は夢がかなっていたよね。でも、私たちは、まだ足りない、もっと上だっていうものを常に求めていて、満足したことはなかったね」という感じでした。
グループ卒業は、全力疾走でゴールテープを切った感じ
――上を求め続ける、充実した時間だったのでしょうか。
つらかったです。競争の社会なんですよ。モーニング娘。としても競争、グループの中でもほかのメンバーと競争。スケジュールがいっぱいで、ほとんど休んでいないし、休んだらほかのアーティストに抜かれちゃうって思っていました。寝ている間も仕事のことを考えているような感覚でした。もっと肩の力を抜いてもよかったのかもしれないんですけど、戦場に立てば人ってそうなるのかなと思います。
――2005年にグループを卒業しましたが、どのように感じていましたか。
「いくぞーっ」てずっと猛ダッシュ、全速力で走ってきて、ゴールテープを切ったという感じでした。最初は、やり切ったという気持ち。それから自分のペースって何だろうって、探して歩き出したという感じでした。
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