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鶴若麻理「看護師のノートから~倫理の扉をひらく」

医療・健康・介護のコラム

医師「手術は難しい」、妻「自宅では難しい」…精神科患者が食道がん わずかな発語で「家に帰りたい」と

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 66歳の男性。食道がんで手術が必要だが、精神疾患のために治療への本人の意向がはっきりしない上、食欲低下で低栄養状態にあるため手術の負担に耐えられず、術後合併症も見込まれること、手術をしても術後のドレーンや管(中心静脈カテーテル)を抜いてしまうリスクなどがあることから、総合病院の医師から以前の主治医(単科の精神科病院)に相談があった。

配置転換を機にうつ病発症 自殺を図り

医師「手術は難しい」、妻「自宅でみるのは難しい」…精神科患者が食道がん わずかな発語で「家に帰りたい」と

 患者は大学の工学部を卒業後、製造業の会社に就職し、開発部門に所属していた。48歳のときに、所属していた開発部門が廃止され、営業部門に転属となった。その頃から気分の落ち込みと不眠を訴えてうつ病と診断され、近くの心療内科クリニックに通院を始めた。

 次第に希死念慮を訴えるようになり、51歳の時、農薬を飲んで自殺を図って倒れているのを妻に発見された。すぐに救急病院に搬送され、身体の治療が済むと同時に、単科の精神科病院へ入院、その後もたびたび希死念慮は再燃し、精神科病院への入退院を繰り返していた。うつによる休職が続き、会社は53歳の時に退職した。

 うつ病による食欲低下や「のどが詰まる感じがする」といった飲み込みづらさの訴えが見られていたが、内科医の診察を受けて器質的な異常は認められず、それもうつの症状として治療が続けられた。胸の違和感や「飲み込んだものが通りにくい」など、それまでとは違う飲み込みづらさの訴えが続き、当初は、新たに出現した訴えもうつ病の症状の一環と理解されたが、飲み込みにくさの表現が変わってきたことや、食事量が一段と減少したことから、内科の受診先を探すことになった。しかし、精神疾患がある患者の検査を受け入れる病院はなかなか見つからず、ようやく遠く離れた場所にある身体合併症病棟を持つ総合病院に行き、精査したところ、食道がんのステージ2で手術が必要であった。

 奥さんは、パートをしながら、認知症を発症した夫の母親を自宅で介護していて、面会は月に1回程度だったそうです。長男もいましたが、祖母の介護は手伝うものの、父親とは関係が悪く、10年以上会っていなかったそうです。

 紹介先の総合病院に入院中は、「家に帰りたい」と訴えたり、せん妄を起こして看護師に暴言を吐いて暴力をふるったりしていました。「頭が働かない、考えられない」と言うばかりで、治療への意思がはっきりと語られることはありませんでした。もともとうつ病の精神症状による食欲低下で体重が減少していたのに加え、がんによるに飲み込みづらさがあり、食事がほとんど食べられない状況が長く続いて栄養状態が悪化していきました。

意欲低下 発語もほとんどなく

 総合病院の医師が主治医に伝えたのは、「この身体状況では手術の侵襲を乗り切れない可能性がある。術前・術後のリハビリテーションにも本人の協力が得られないことが考えられ、そうすると術後合併症のリスクは高まる。せん妄を起こして手術後にドレーンや管を抜く恐れもある。患者にはこのような説明をしたが、反応が薄く、どの程度理解しているのか分からない。現時点では手術は難しく、精神症状のコントロールが必要ではないか」ということだった。化学療法や放射線療法も最後まで行うのは難しいのではないか、と見られていた。

 妻は、「過去に自殺を図ったことがある夫が、食道がんの診断を受けたショックでまた自殺を図ってしまうのではないか」と恐れていた。しゅうとめをいったんは施設に入所させたが、新しい環境を姑が強く拒んで介護困難となったため、施設から自宅へ引き取っていた経緯もあり、意欲や活動性が低下して生活に援助が必要となっている夫を家でみるのは難しいと話した。夫には、慣れた環境である精神科病院への再入院を希望した。

 再入院した精神科病院の病棟では、主治医から、「食道がんの治療を受けられるよう、うつ病の治療をして食欲の改善を目指す」との方針が示されました。食道の狭くなった部分を広げる処置がされ、通過障害は改善しましたが、「のどが詰まる感じがする」という訴えは変わらず、食事の量はなかなか回復しませんでした。医師や看護師のチームカンファレンスでは、「うつ病の治療も重要だが、まず進行の早い食道がんの治療が優先されるべきではないか」との意見があがりました。患者本人は、精神科病院へ戻ってきたときには「家に帰りたい」と何度か訴えたものの、その後は意欲低下や無気力が強くなり、発語もほとんどないため、「がんの治療をどうするか」について自分の意見を伝えることはありませんでした。看護師との会話では、たまにぼそっと「家に帰りたい」と言うことがありましたが、主治医や家族に対しては何も言いませんでした。

 看護師は、キーパーソンである妻に電話連絡をしてみましたが、患者の治療については「先生にお任せします」と話すのみでした。一時帰宅についても、認知症の姑の介護負担とコロナ禍による制約を理由に、なかなか実現しませんでした。「飲み込みづらい」という訴えは変わらず続き、次第に柔らかい食べ物しかのどを通らなくなりました。声のかすれや背中の痛みも出現するようになったため、主治医は以前入院していた総合病院の医師に相談し、患者は総合病院を再受診することになりました。医師の診断は、ステージが進み、食道がんの治療の適用はないということで、緩和ケアを勧められました。

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鶴若麻理(つるわか・まり)

 聖路加国際大学教授(生命倫理学・看護倫理学)、同公衆衛生大学院兼任教授。
 早稲田大人間科学部卒業、同大学院博士課程修了後、同大人間総合研究センター助手、聖路加国際大助教を経て、現職。生命倫理の分野から本人の意向を尊重した保健、医療の選択や決定を実現するための支援や仕組みについて、臨床の人々と協働しながら研究・教育に携わっている。2020年度、聖路加国際大学大学院生命倫理学・看護倫理学コース(修士・博士課程)を開講。編著書に「看護師の倫理調整力 専門看護師の実践に学ぶ」(日本看護協会出版会)、「臨床のジレンマ30事例を解決に導く 看護管理と倫理の考えかた」(学研メディカル秀潤社)、「ナラティヴでみる看護倫理」(南江堂)。映像教材「終わりのない生命の物語3:5つの物語で考える生命倫理」(丸善出版,2023)を監修。鶴若麻理・那須真弓編著「認知症ケアと日常倫理:実践事例と当事者の声に学ぶ」(日本看護協会出版会,2023年)

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