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医療・健康・介護のコラム

2度の流産後、10年間の不妊治療 悩んだやめどき

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2度の流産後、10年間の不妊治療 悩んだやめどき

 Tさんは30歳で結婚し、すぐにでも子どもが欲しいと思っていたのですが、旦那様は「まだ先で良い」とのことで、当初から子どもを持つことに対しての温度差がありました。

妊娠の喜びもつかの間…

 それでも「早く子どもを」と望むTさんは、すぐに自己タイミング法を続け、1年ほどたって念願の妊娠ができました! しかし、喜びもつかの間、稽留流産となってしまったのです。妊娠から流産というつらさと悲しみを味わったのですが、子どもを持ちたいという気持ちはさらに大きくなり、また次の妊娠に向けて自己タイミング法を続けたそうです。

 「でも、またちょうど1年後にも、同じ時期での流産をしてしまって……」とTさんの声が沈みます。やっとの思いで授かった喜びが、あっという間に悲しみに変わり、「今度こそは」という願いもかなわず、とても苦しい期間が続きました。

「自然淘汰」「仕方ない」の言葉がけがつらかった

 いずれも初期の流産ということもあり、周囲からは「自然淘汰だよ」「仕方なかったんだよ」という言葉を多くもらいました。「もちろん私のことを心配して、励ましの気持ちからかけてくれているとはわかっていますが、私にとっては、おなかに宿ってくれた時点で、すでに我が子で大切な命です。それを、まるでなかったことにするようなその言葉がかえってつらくて……。周囲の言葉がけは、流産してしまった自分を苦しめました」といいます。

 2度の流産後、旦那様も少しずつ妊活に協力的にはなっていたものの、ひどく落ち込むTさんにどう接したら良いのか困惑していたようで、夫婦の関係がギクシャクすることも増えていきました。

 そのような中でTさんは「流産した子どもたちを、きちんと弔ってあげたい」という気持ちをずっと抱えていました。しかし、そうしたことを言い出してくれる人は誰もおらず、周囲や旦那様からは「終わったことは仕方ない。いつまでも悲しんでないで前を向きなさい!」と言われているように感じてしまったそうです。流産に対するいろいろな気持ちはなるべく心の中に閉じ込め、どうしてもつらい時はお風呂で一人で泣くという日々を過ごしていました。

不育症の可能性 本格的に不妊治療

 「ちょうどその頃、母から『習慣性流産を専門に診てもらえる病院があるみたいよ』と教えてもらい、その研究をしている医師の診察を受けに県外の病院まで出向きました。そして、検査の結果、やはり不育症の可能性があるということがわかりました」

 話によると、Tさんは抗リン脂質抗体症候群という自己免疫疾患の一つがあり、自己抗体ができることによって血液が固まりやすくなり、流産を引き起こす原因となるとの診断でした。しかし、きちんと対処すれば妊娠、出産も可能ということだったので、まずは再び妊娠を目指すことになったそうです。

 ここから本格的にTさんの不妊治療がスタートしました。実家から通える不妊治療専門クリニックに行き、これまでの経緯を伝えた上で治療を開始。以前から生理痛もひどく、子宮内膜症も疑われていたので、 腹腔(ふくくう) 鏡下での検査・処置をし、今度は自己流ではなく、きちんと病院で診てもらうタイミング法から取り組みました。

 このクリニックの医師や看護師、スタッフの方はとても穏やかで対応も良く、Tさんはストレスなく通院できていたそうですが、治療の方はなかなか妊娠につながらないまま、時間だけがどんどん過ぎて行きました。

 その後、人工授精、体外受精、顕微授精とステップアップしましたが、Tさんは、もともと卵が育ちにくい体質とのことで、採卵まで至らないことも多く、採卵できたとしても一つか二つだったとのこと。そんな貴重な卵子で受精卵が運良くできた場合も、残念ながら妊娠することはありませんでした。

 Tさんは当時まだ30代前半だったので、医師からも「この年齢で、この良いグレードでの移植なのに、どうして妊娠できないんだろう?」と言われていたそうです。それでも懸命に治療を続け、結局原因はわからないまま数年が経過してしまいました。

治療に行き詰まり、病院を変更

 移動の負担やストレスも少しずつ増え、何となく治療の行き詰まりのようなものも感じていた頃、そのクリニックの看護師から「Tさん、どうせ同じ距離を移動するなら、関西の方の病院に行くという選択肢もあるわよ」と言われました。

 「まさか病院側から、そんな提案があるとは思ってもなかったので、正直少し驚いたんですが、同時に、また違う道が開けたような感覚にもなった」とTさんは語りました。通常は、自分が通っているクリニックから別の施設への変更を勧められると、ショックを受けたりするものですが、それまでにクリニックと築いてきた信頼関係があったから受け入れられたといいます。

 Tさんは、いくつかの候補の中から関西の病院を選びました。最後に、そのクリニックにあいさつに伺った時には、わざわざ医師は診察を抜けて顔を見に来てくださり、看護師やスタッフの方からたくさんの応援とはげましを頂いたとのこと。「皆さんの応援がうれしくて、それで新たな気持ちで妊活に向かう心の準備ができていった」そうです。

 こうして遠距離通院をすることになったわけですが、Tさんは「関西にはなじみがないし、観光がてら行こう」というようなリラックスした気分で治療をスタートしました。

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松本 亜樹子(まつもと・あきこ)
NPO法人Fineファウンダー・理事/国際コーチング連盟マスター認定コーチ

松本亜樹子(まつもと あきこ)

 長崎市生まれ。不妊経験をきっかけとしてNPO法人Fine(~現在・過去・未来の不妊体験者を支援する会~)を立ち上げ、不妊の環境向上等の自助活動を行なっている。自身は法人の事業に従事しながら、人材育成トレーナー(米国Gallup社認定ストレングス・コーチ、アンガーマネジメントコンサルタント等)、研修講師として活動している。著書に『不妊治療のやめどき』(WAVE出版)など。
Official site:http://coacham.biz/

野曽原 誉枝(のそはら・やすえ)
NPO法人Fine理事長

 福島県郡山市出身。NECに管理職として勤務しながら6年の不妊治療を経て男児を出産。2013年からNPO法人Fineに参画。14年9月に同法人理事、22年9月に理事長に就任。自らの不妊治療と仕事の両立の実体験をもとに、企業の従業員向け講演や、自治体向けの啓発活動、プレコンセプションケア推進に力を入れている。自身は、法人の事業に従事しながら、産後ドゥーラとして産後ケア活動をしている。

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