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第49回医療功労賞

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[第49回医療功労賞]中央表彰者の10人

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 過疎地など厳しい環境で長年、地域の医療や福祉を支えてきた人を表彰する「第49回医療功労賞」(読売新聞社主催、厚生労働省、日本テレビ放送網後援、損保ジャパン、アインホールディングス協賛)の中央表彰者10人が決まった。献身的な活動をしてきた受賞者の横顔を紹介する。(敬称略)

◇鈴木 孝徳 60 医師…コロナ対応 役割分担で

地域の医療 支え続けて…第49回医療功労賞 中央表彰者の10人

診察する鈴木さん。「安心につながる医療を提供したい」と考えている(鈴木さん提供)

 千葉県南房総市の過疎地域で約30年間、医療を提供し、住民の健康保持・増進をはかった。新型コロナウイルスの感染が広がった昨年からは、近隣の医療機関と連携しながら、患者の治療にあたり、感染症対策にも貢献している。

 自治医科大を卒業後、1990年に富山町国保病院(現・南房総市立富山国保病院)に勤務した。翌年、先輩医師の退職に伴い、30歳で病院長に就任した。

 その年、それまで力を入れていた救急や在宅医療に加え、病気の早期発見のために人間ドックを始めた。97年には、高齢者が、入院をきっかけに寝たきりにならないように院内にリハビリ室を設けた。「地域で暮らす人のニーズにできる限り応えたい」と懸命だった。

 少子高齢化が進む中、限りある医療資源を有効に活用するため、2018年に地域医療連携推進法人「房総メディカルアライアンス」の設立に尽力した。地域の医療機関がそれぞれ役割分担を決め、協力して患者に対応する体制を整えた。

 昨年2月からは、新型コロナウイルス感染者の受け入れを始めた。千葉県の感染症指定医療機関として、以前から訓練はしていたが、実際に大勢の感染者を治療するのは未知のチャレンジだった。「当初はウイルスに関する情報が少なかった。職員たちは不安もあっただろうが、よく頑張ってくれた」と振り返る。

 4月以降、感染者が多い時期は、一般の入院患者に転院してもらい、新型コロナ専用病院とした。軽症者は自院、重症者は他院が診るという役割分担になった。一般患者の転院の際には、地域の医療機関が迅速に受け入れてくれた。「他院からの助言や連携のおかげで、小さい医療機関でも、安心して治療にあたることができた」と感謝する。

 受賞を受け、「これからも地域の医療や介護の関係者と力を合わせていきたい。新たな困難がまたやってくるかもしれないが、柔軟に対応する姿勢を持ちたい」と意欲を語る。〈千葉県南房総市〉

◇月野 隆一 78 医師…和歌山初の遺伝外来

 遺伝医療の専門家として、生まれつき障害がある子どもたちの治療に尽力してきた。

 1971年、和歌山県立医大に県内初の「染色体外来(後に遺伝外来)」を設置した。通院負担軽減のため、県内の他のエリアの病院にも遺伝外来を新設。障害者の療育に関わる医師や患者、教育関係者らが意見を交換する和歌山療育研究会を創設し30年以上、会長として活動した。

 2008年開設の重症心身障害児(者)施設「和歌山つくし医療・福祉センター」の院長に就任し、14年からは名誉院長。医師ら対象の講演もしている。〈大阪府阪南市〉

◇松浦 範夫 76 医師…祖父の代から島守る

 愛媛県今治市の 大三島おおみしま で祖父の代からの開業医として、地域医療を担ってきた。

 日本大医学部を卒業後、同大病院で点滴薬の研究をしていたが、1976年、父の病気をきっかけに、島へ。88年には島内で独立、開業した。

 通院が難しい高齢者のため、遠隔地域への出張診療を約10年間行った。出張をやめた今も、週3人程度の往診をするほか、患者や地域の保健福祉職からの相談や依頼に応じている。

 医院は日曜祝日以外は休まず、生涯現役を目指している。〈愛媛県今治市〉

殿谷(とのがい)  加代子 67 保健師…精神障害者の支援に奔走

 1975年に徳島県の旧相生町(現・ 那賀なか 町)の保健師となり、主に精神障害者の自立支援に力を尽くしてきた。

 精神障害への理解や施策が乏しかったが、家族の会の発足やデイケアの開設に取り組んだ。

 身体・知的障害者も含めた、障害がある人の自立支援や、社会参加促進のため、作業所やグループホームの設立、運営にも奔走した。

 2013年に退職後も、作業所を手伝っている。災害に備えた地域の一斉避難訓練など幅広くボランティア活動に取り組む。〈徳島県那賀町〉

◇丸本 文子 70 准看護師…常勤医不在の島で30年

 1987年に、瀬戸内海の 与島よしま (香川県坂出市)の診療所に就職。以来、常駐の医師がいない、与島と周辺の 櫃石島ひついしじま岩黒島いわくろじま の三つの島で医療を支えてきた。

 88年の瀬戸大橋開通までは、急患が出ると、夫で漁師の哲夫さん(72)の船で岡山県の病院に運んだ。高齢者から体調不安の電話があれば、夜間でも駆けつけた。

 瀬戸大橋開通後は、坂出市街から救急車が来るようになったが、台風などで通行止めになった時は、医師の指示を確認し、患者宅を訪問する。健康相談にも乗り、住民の健康に気を配る。〈香川県坂出市〉

◇大谷 宏明 81 医師…率先してリハビリ導入

 あまり認知されていなかったリハビリや訪問診療に注目し、率先して導入した。

 1973年、父が経営していた広島県江田島市の大谷病院(現・島の病院おおたに)に、整形外科医として着任した。患者のリハビリに取り組み始めたが、当時は機器が高価だったため、自分で製作した。人材確保にも力を入れ、理学療法士ら専門職員約50人の態勢を作り上げた。

 病気でも自宅で過ごしたいという住民の希望を受けて、93年から訪問診療も始めた。86年創設の「ヒロシマMIKANマラソン」の発起人でもある。〈広島県江田島市〉

◇瀬尾 研一 79 医師…豪雪地で夜間も往診も

 北海道北部の 中頓別なかとんべつ 町で、40年以上、医療を提供してきた。

 東京大医学部を卒業後、1975年に同町国保病院に赴任した。院長になると、訪問診療や住民への医療講話などにも力を注いだ。

 87年に近くの 美深びふか 町に移り、瀬尾医院を開業したが、自分を慕って来る中頓別町住民のために、89年に同町にも診療所を開設し、週2日、夜間診療や往診を行った。冬は診療所まで片道1時間半もかかる豪雪地帯での出張診療を、昨年10月末まで31年間続けた。今後も美深町での診療は続ける。〈北海道美深町〉

◇伊藤 清明 73 理学療法士…秋田の理学療法向上

 秋田県内の理学療法の先駆者として、発展と質の向上に貢献した。

 1977年に秋田市の中通リハビリテーション病院に赴任。当時は、県内の理学療法士は十数人と少なく、研修機会を求めて県外に足を運び、 研鑽けんさん を積んだ。

 リハビリでのチーム医療の必要性を訴え、推進に寄与したほか、病院での体系構築にも力を注いだ。

 秋田市の機能訓練事業にも長年携わった。介護支援専門員の指導もし、在宅リハビリの浸透に取り組んだ。

 現在はサービス付き高齢者向け住宅で週3日、入居者の機能回復にあたっている。〈秋田市〉

◇島田 照三 82 医師…障害児の統合保育提唱

 児童精神科医として半世紀、子どもたちに寄り添ってきた。神戸市の特別支援学校で治療や家族との面談などにあたっている。

 保育や教育の現場で、障害児を同じ空間で育てる「統合保育」の必要性を早くから主張。神戸市が全国に先駆けて導入した「情緒障害児通級指導教室」には準備段階から関わった。障害児が通常の学級で学びながら、定期的に障害に応じた指導を受けられる別の教室にも通う方式。他の自治体にも広がった。

 82年に神戸市で島田クリニックを開設した。〈神戸市〉

◇青山 賢治 64 理学療法士…リハビリ組織を設立

 1980年から40年、愛知県豊田市の厚生連足助病院などで患者のリハビリや、高齢者の体力維持に努めた。88年から10年間は、保健師と協力し、市町村の機能訓練事業に参加した。

 2010年の奥三河リハビリテーション会の設立に奔走。地域でリハビリに関係する理学療法士や作業療法士、言語聴覚士が集まる機会を作り、リハビリの技術や知識の向上を目指した。

 昨年9月末で病院勤務から退いたが、経験と知識を生かして地域への貢献は続けるつもりだ。〈愛知県豊田市〉

◇中央選考委員

永井良三 (自治医科大学長)

宮嵜雅則 (国立保健医療科学院長)

五十嵐隆 (国立成育医療研究センター理事長)

尾身 茂 (地域医療機能推進機構理事長)

石井則久 (国立療養所多磨全生園長)

菱沼典子 (三重県立看護大学長)

樽見英樹 (厚生労働事務次官)

迫井正深 (厚生労働省医政局長)

正林督章 (厚生労働省健康局長)

笠井 聡 (SOMPOホールディングス執行役)

首藤正一 (アインホールディングス代表取締役専務)

小杉善信 (日本テレビ放送網社長)

山口寿一 (読売新聞グループ本社社長)

吉村秀男 (読売新聞東京本社事業局長)

 (敬称略)

主催 読売新聞社

後援 厚生労働省 日本テレビ放送網

協賛 損保ジャパン アインホールディングス

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