アラサー目前! 自閉症の息子と父の備忘録 梅崎正直
医療・健康・介護のコラム
「生まれちゃったのね」と言われた通夜の席
僕の父親が死んだのは2006年、もう14年前の11月だった。肝硬変の末期であったが、主治医から「意識がはっきりしている今のうちに、一度帰ってきてほしい」と連絡があり、帰郷した翌朝に急変したのだ。医師は予期していなかったろうが、結果的に、親の最期を 看取 らせてくれたことになる。通夜は2日後になり、妻は喪服と3人の子どもを抱えて、僕の実家の北九州までやってきた。
祖父のお通夜の晩に…
昭和一けた生まれの父は、7人きょうだいの次男。すでに他界していた2人を除き、高齢のおじさん、おばさんたちがぞろぞろと式場に集まってきていた。洋介と会ったことのある人もいたが、もう5~6年前のことだった。
人がたくさん集まった式場で、落ち着きなく動き回る12歳の洋介を、おじ、おばたちはもの珍しげに見ていた。洋介が自閉症であることは、どうも知らないようだった。読経と焼香が終わって、控え室で食事を取っていると、おばさんの一人が話しかけてきた。
洋介の障害のことを一通り聞かれた後、おばさんはこう言った。
「そう……。生まれちゃったのね」
僕も一瞬、言葉に詰まったが、妻のほうはこの一言にいたく傷ついたようで、葬儀が全て終わった後、そのことを明かした。
食事の場では、料理の箱の隅にちょっとだけある和菓子を洋介が食べたがったので、おばさんたちが自分のお菓子をこぞって持ってきてくれた。待望の初孫をかわいがった祖父が、この世からいなくなってしまったことを洋介が知る由もなく、終始、上機嫌だった。
なぜ孫の障害を明かさなかったのか
おばが「生まれちゃったのね」と言ったのも、もちろん悪意があってのことではない。数十年前にその地域で育った僕としては、理解できることだった。小学校から高校までを通じて、学校や地域で重い障害のある子と接したことはなかったし、近くにあったはずの養護学校(今の特別支援学校)についても、存在を教えてくれる大人はいなかった。今年3月に亡くなった宮城まり子さんの「ねむの木学園」の映像が当時のテレビで放送され、「自閉症」という言葉を、大人も子どもも初めて知った。そんな時代を過ごしたおばさんにとっては、ごく普通で正直な反応だったろう。
それよりも、意外だったのは、亡くなった父が、洋介の障害のことを10年近くの間、自分のきょうだいたちにも話していなかったことだ。父は、自閉症の洋介のことを、どのように考えていたのだろうか。幼いころはまさに目に入れても痛くない溺愛ぶりだった父が、体が大きくなっても言葉が出ない孫に対して、接し方に困っているふうであったのは確かだ。
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