ペットと暮らせる特養から 若山三千彦
医療・健康・介護のコラム
[看取り犬・文福](5)「この犬っころがっ!」 杖で殴られそうになっても寄り添い、奇跡が…
闇市で商売していた少女時代に戻った?
このような不思議な現象も、認知症の症状としては決して珍しくありません。家族のだれもが知らなかったような人格に変容してしまうのです。
息子さんは、江川さんの人格変容について一つの推測をしていました。息子さんが生まれる前、まだ江川さんが十代の少女だった終戦直後、両親を亡くした江川さんは、幼い弟妹を食べさせるために闇市で商売をしていたそうです。戦後の闇市で少女が商売をするのですから、周囲の男たちと張り合って、汚い言葉も使ったのではないか、という推測です。江川さんの頭の中は、その時代に戻っていたのかもしれません。
この推測が正しいかどうか、確かめるすべはありませんが、十分あり得ることだと思います。認知症のために、意識が昔の時代に戻ってしまうことは、しばしばあるのです。そしてそれは、一番幸せだった時代、逆に一番苦労していた時代など、本人にとって最も強く印象に残っている時代に戻る場合が多い様な気がします。これは私たちの経験則によるもので、医学的な根拠は全くありませんが。
途絶えた犬との交流 でも文福だけは違った
こうして、大の犬好きだった江川さんと犬たちの交流は途絶えてしまいます。
認知症ゆえに、食べるということもよく理解できなくなっていた江川さんは、食事摂取量が減り、徐々に体も弱っていきました。そして、一日の大半をベッド上で過ごすようになりました。もう犬たちを殴ろうとすることもできません。それでも犬たちは、いったん江川さんが怖いと認識してしまったため、江川さんの部屋には近寄りませんでした。
ところが、文福だけは違ったのです。文福は江川さんのベッドに上がり、江川さんに体をこすりつけて甘えていました。
「何すんだよっ! この犬っころがっ! あっち行きやがれっ!!」
江川さんの声に力はなくても、激しく、そして口汚くののしりますが、文福は平気な顔をしていました。怒鳴られても、怒鳴られても、ベッドに上がり込んでいました。
最期に奇跡が… 文福をなでて「ごめんねー」と涙
そして最期に奇跡が起きたのです。江川さんが震える腕を必死に上げて、文福をなでたのです。
「ごめんねー、ワンコ、許してねー」
江川さんは大粒の涙をこぼしながら、文福を優しくなでていました。そのお顔はとっても穏やかで、退院以来、常に浮かんでいた険しい表情はかけらも見られませんでした。それから1週間、江川さんと文福はずっと一緒でした。江川さんはいつも穏やかな笑みを浮かべていました。そして笑顔のまま、逝去されました。文福と息子さんたちに看取られながら。
江川さんの心の中で何が起きたのかはわかりません。一つだけわかっているのは、文福に癒やされ、江川さんは心穏やかに旅立つことができたということです。
このエピソードは、拙著「看取り犬・文福の奇跡」には書いていません。物語にするには情報が少なすぎたためです。しかし、このたび、その本を編集しなおして、宝島社から「看取り犬・文福 人の命に寄り添う奇跡のペット物語」として出版することになったので、この物語を新たに書き加えました。江川さんの心の中で起きたことを私が想像して、一つの物語に仕立てました。本コラムと併せてお読みいただけると興味深いと思います。(若山三千彦 特別養護老人ホーム「さくらの里山科」施設長)
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旅立つ際に、犬への愛情を取り戻し穏やかにご逝去されたこと、良かったと思います。文福くんが認知症を理解していたかどうかは分かりませんが、彼にとっては、人格が変わってしまった江川さん以上に、自分に優しく接してくれた江川さん、だったのでしょう。以前のようにかわいがってもらいたくて、甘えさせてもらいたくて、何度も何度もベッドに上がったのでしょう。最後に願いがかなって良かった。本当に。
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こんなふうに
きーこ
こんなふうに 穏やかになれる最後が迎えられたらどんなにいいだろう。 愛猫と同じタイミングで最期を迎えたいな。 猫なでがら。
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