死が人生選択の一つだと思える 慎 2020年5月2日 以前、自殺を考えたことのある現在20代人間です。 とある経験がきっかけで、2年ほど前から精神障害を発症しており、一番ひどいときに、死を考え、一度だけ、失敗しましたが、自殺を実行に移したことがあります。 その時の自分は、死ぬしかない、死んだほうが楽という感覚より、 人の生き方は変化していくもので、死とはその変化の延長であると思っていました。 だから、まるで高校三年生の時の進路選択をするときのような、就職活動で就職先を選択するときのような感覚で、死という選択肢が出てきました。 なので、周りに「死にたい」と漏らしたとき、なぜ止められるのか、人生の在り方はそれぞれなんだからなぜ自殺=止めなければならないものなのかがわかりませんでした。 現在、紆余曲折ありましたが、精神障害との付き合いは続きながらも、以前よりは前向きに生きていると思います。死にたいと思うようなこともほとんどなくなりました。 しかし、今でも、自殺という人生の選択が、他者によって止められなければならないものなのか、未だに答えが出ておりません。 私も自殺を思いとどまる理由が今はありますが、その理由が揺らいだり、無くなったりしたとき、きっと「また死ねばいい」と思うだろう、と思うのです。 私は精神医学について何か学んだわけではありません。 しかし、自殺企画者に寄り添うこと=自殺を止めること、ではないように思うのです。自殺を止めるのであれば、自殺しない理由を作り、それを増やし、揺るぎのないものにする、止めることより、止めた後のケアのやり方を理解することのほうがその苦しみの理解につながるのではないかと思いました。 それが、今の日本の、医療体制、環境下で、そしてもっともっと個人レベルで、できるのかと言われると、やはり難しいのが現実でもあるとも思います。 ですが、個人レベルで向き合えるものには向き合いたいとも思います。 違反報告
大きすぎる心の傷と、器質障害 赤い羽 2020年4月25日 救えた命があるのではとお考えになるのは先生が素晴らしい心構えを持って従事されている事がよく分かります。 しかし、、あり得ないくらい酷い経験、こんな悪い環境でよく生きてたと思うようなわされて、それに元々遺伝的な器質がある方は、健康的なコミュニケーションある社会的な居場所を選択せず、誤った友人や恋人、上司らのいる所は引き寄せられていきます。選択する脳がそういう流れを心地よいと判断しているから、つまり、我々健常者がいいと思う概念を経験する為の車に乗っていない様なものなのではと感じています。 だから、極端な事申し上げますが自殺して貰いたくなくてもある一定の割合の方では亡くなってしまう。そして、その極限の苦しみにおいては死の世界の方が幸せだという価値を持っている事自体悪いことではなく、誰かのせいでも無いのだと思います。 違反報告
言葉と感情のスカラーとベクトルと多様性 寺田次郎 関西医大放射線科不名誉享受 2020年4月21日 死にたいという言葉、死にたいという言葉を口にする人間、その言葉を受け止めたり拒否する人間が存在することが3次元、4次元に絡み合うところが、本文の案件の難しさであると思います。 だからこそ、プロでさえ全ての自殺を止めきれない。 また、明確な意図だけでなく、コミュニケーションとしての「死にたい」が混在するのみならず、後解釈としても記憶や記録を動かしていく事の意味は多分、常人の理解の外側でしょう。 率直に言って、並みの医療者の範疇の外だと思いますし、うつ病やうつ症状に安易な励ましは禁止という型通りの行為が原則推奨される理由でもあります。 むしろ、自殺企図の患者が、その医療者に希望を持たない方が可能性を繋ぎます。 死にたいという言葉もそうですし、本文の服薬自殺もそうですが、自殺への意思や行動にはベクトルとスカラーがあるのではないかと思います。 そういう意味で、悪い面はあっても、鎮静剤である向精神薬の効果は否定も出来ません。 一方で、自殺行為を止めるという事と希望や生産性があるということは別で、実はそれが難しいのではないかと思います。 経済と思考の貧困が多くの問題に負の連鎖をもたらす一方で、兼ね備えても救われない人がいる現実があります。 そういう複雑な社会や認知の中で、相手や自分の中の感情や状況にどの程度寄り添うべきか、捨ておくべきか、判断も難しい所です。 違反報告
稀有な医師
からあげ醤油味
大変な分野で頑張っていらっしゃる先生だと思います。お体を大切にされてほしいです。
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死が人生選択の一つだと思える
慎
以前、自殺を考えたことのある現在20代人間です。
とある経験がきっかけで、2年ほど前から精神障害を発症しており、一番ひどいときに、死を考え、一度だけ、失敗しましたが、自殺を実行に移したことがあります。
その時の自分は、死ぬしかない、死んだほうが楽という感覚より、
人の生き方は変化していくもので、死とはその変化の延長であると思っていました。
だから、まるで高校三年生の時の進路選択をするときのような、就職活動で就職先を選択するときのような感覚で、死という選択肢が出てきました。
なので、周りに「死にたい」と漏らしたとき、なぜ止められるのか、人生の在り方はそれぞれなんだからなぜ自殺=止めなければならないものなのかがわかりませんでした。
現在、紆余曲折ありましたが、精神障害との付き合いは続きながらも、以前よりは前向きに生きていると思います。死にたいと思うようなこともほとんどなくなりました。
しかし、今でも、自殺という人生の選択が、他者によって止められなければならないものなのか、未だに答えが出ておりません。
私も自殺を思いとどまる理由が今はありますが、その理由が揺らいだり、無くなったりしたとき、きっと「また死ねばいい」と思うだろう、と思うのです。
私は精神医学について何か学んだわけではありません。
しかし、自殺企画者に寄り添うこと=自殺を止めること、ではないように思うのです。自殺を止めるのであれば、自殺しない理由を作り、それを増やし、揺るぎのないものにする、止めることより、止めた後のケアのやり方を理解することのほうがその苦しみの理解につながるのではないかと思いました。
それが、今の日本の、医療体制、環境下で、そしてもっともっと個人レベルで、できるのかと言われると、やはり難しいのが現実でもあるとも思います。
ですが、個人レベルで向き合えるものには向き合いたいとも思います。
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大きすぎる心の傷と、器質障害
赤い羽
救えた命があるのではとお考えになるのは先生が素晴らしい心構えを持って従事されている事がよく分かります。
しかし、、あり得ないくらい酷い経験、こんな悪い環境でよく生きてたと思うようなわされて、それに元々遺伝的な器質がある方は、健康的なコミュニケーションある社会的な居場所を選択せず、誤った友人や恋人、上司らのいる所は引き寄せられていきます。選択する脳がそういう流れを心地よいと判断しているから、つまり、我々健常者がいいと思う概念を経験する為の車に乗っていない様なものなのではと感じています。
だから、極端な事申し上げますが自殺して貰いたくなくてもある一定の割合の方では亡くなってしまう。そして、その極限の苦しみにおいては死の世界の方が幸せだという価値を持っている事自体悪いことではなく、誰かのせいでも無いのだと思います。
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言葉と感情のスカラーとベクトルと多様性
寺田次郎 関西医大放射線科不名誉享受
死にたいという言葉、死にたいという言葉を口にする人間、その言葉を受け止めたり拒否する人間が存在することが3次元、4次元に絡み合うところが、本文の案件の難しさであると思います。
だからこそ、プロでさえ全ての自殺を止めきれない。
また、明確な意図だけでなく、コミュニケーションとしての「死にたい」が混在するのみならず、後解釈としても記憶や記録を動かしていく事の意味は多分、常人の理解の外側でしょう。
率直に言って、並みの医療者の範疇の外だと思いますし、うつ病やうつ症状に安易な励ましは禁止という型通りの行為が原則推奨される理由でもあります。
むしろ、自殺企図の患者が、その医療者に希望を持たない方が可能性を繋ぎます。
死にたいという言葉もそうですし、本文の服薬自殺もそうですが、自殺への意思や行動にはベクトルとスカラーがあるのではないかと思います。
そういう意味で、悪い面はあっても、鎮静剤である向精神薬の効果は否定も出来ません。
一方で、自殺行為を止めるという事と希望や生産性があるということは別で、実はそれが難しいのではないかと思います。
経済と思考の貧困が多くの問題に負の連鎖をもたらす一方で、兼ね備えても救われない人がいる現実があります。
そういう複雑な社会や認知の中で、相手や自分の中の感情や状況にどの程度寄り添うべきか、捨ておくべきか、判断も難しい所です。
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