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速すぎて電柱が見えなかった新幹線~鉄道史研究者・老川慶喜さんの回想

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 日本の鉄道史の研究者で、国鉄の黄金期から経営危機、そして分割民営化によるJRの発足を見続けてきた立教大学名誉教授の老川慶喜さん(69)は、昨年2月、「日本鉄道史 昭和戦後・平成篇」(中公新書)を刊行、戦後の鉄道の歩みを詳細に振り返る書籍として好評を博しました。昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線が開業したときに中学生だった老川さんは、「近所の女性が新幹線に乗って『速くて電柱が見えなかった』と驚いていたのが印象的です」と回想します。

 

新幹線の生い立ちを語る老川慶喜さん

東京五輪と新幹線建設はワンセットだった

 昭和30年(1955年)までの戦後の復興期を経て、名目15%前後、実質10%前後の成長率を維持した高度成長期(昭和30年~48年)に入った日本において、太平洋沿岸部の工業地帯や大都市(東京・名古屋・大阪)を結ぶ東海道の旅客輸送、貨物輸送は限界に達していました。今のように東名高速道路などなかった時代にあって、鉄道の輸送力アップは、経済成長を維持するためにも不可欠な政治、経済的な課題として浮かび上がります。

 「日本の鉄道(JR)は狭軌(1067㍉)ですが、高速度の鉄道を安全に走らせる広軌(1435㍉)の別線を作ろうという動きが国鉄の内部から出てきます。それを強力に推進して実現したのが、当時の十河信二そごうしんじ・国鉄総裁でした。強力な反対論もありましたが、それを抑え込むため、世界銀行から融資を受けて広軌の新幹線を作り、東京五輪に間に合わせるという一種の国際公約を世界に表明したわけです。新幹線建設と五輪は世銀融資の実行においてワンセットでした」

 東京五輪は、戦争で全国が焦土と化した日本の復興のシンボルでもありました。そして、新幹線建設という当時の世界の最先端技術の粋を集めた事業もまた、不死鳥のようによみがえった日本の象徴として位置づけられた、と老川さんは語ります。

 「五輪で東京をはじめとする日本のインフラを整備して欧米の都市に追いつく。当時の国鉄の担当者たちは、新幹線という日本独自の技術を世界にお披露目する重要な役割を担ったのです」

近所の女性は「窓が開かないので弁当が買えない」と嘆いた

晴れの東海道新幹線開業を伝える記事

 老川さんが実際に新幹線に乗るのは、開業して数年してからですが、開業直後、老川さんの生まれ育った埼玉県川口市の近所の女性たちが団体旅行で京都に行き、土産物を持って老川家を訪れ、新幹線の感想を口々に述べたそうです。

 「いかに新幹線のスピードが速いか、ということを口々に感嘆した様子で話していたのを覚えています。『速すぎて電信柱が見えなかった』と言っていましたね。もう一つ、おかしかったのが、『窓が開かないので弁当が買えなくて困った』とこぼしていたこと。今では当たり前のことですが、当時としては斬新だったのです」

 川口市は鋳物の街だったので、国立競技場の聖火台を川口の鋳物工場が作ったということもあり、老川さんは東京五輪の興奮を肌で感じていました。聖火リレーの様子も覚えています。そんなときに新幹線開通というビッグイベントも重なり、身近な体験では、京都が近くなったことから、農協が企画したり、地元の議員の後援会員が集まったりした団体旅行が盛んになり、旅行熱のようなものもあったそうです。

大阪万博で利用が爆発的に増加

大阪万博は大きなインパクトを与えた

 「1960年代は企業の社員旅行などが最も盛んな時期でした。熱海などがその例です。その中で、東海道新幹線の場合、一番その旅客輸送の役割を果たしたのは、昭和45年(1970年)の大阪万博だと思うのです。東京五輪は半月間のイベントですが、万博は半年間でしたから。僕は万博に3回行きました。そのうち2回は夜行バスでしたが、1回は新幹線を利用しました。だから、新幹線を使って京都や大阪に行くという旅行形態が爆発的に増加したのは、実は万博のためでした。その後、『ディスカバージャパン』などのキャンペーンもあって、団体旅行から個人旅行にシフトし、新幹線が旅行に定着しました」

 団体旅行から個人へ、という流れで、新幹線の座席形態が果たした役割にも老川さんは着目します。それまでの在来線はボックスシートだったので、基本的にボックスに4人掛け。そうすると、必ず向かい合って座るので、自然発生的に会話が始まる。そして冷凍ミカンを分け合って食べたりする。団体旅行には向いた形態でした。それが新幹線になると、皆が同じ方向を向いて座り、隣人との会話が始まる糸口もなかなかない。個人旅行に向いたシートの配列と言えるでしょう。それが今に至るまで続いているのです。

 「現在建設が進んでいるリニアになったら、ますます会話がなくなるでしょう」と言って老川さんは笑いますが、どこかさみしい気がするのは筆者だけでしょうか。

五輪と新幹線は長野でもセットに

長野新幹線開業も冬季五輪とリンクしていた

 平成10年(1998年)の長野冬季五輪の際もその前年、長野新幹線が開通しました。老川さんは、五輪と新幹線の関係について次のように述べます。

 「建設のためのお金が作りやすいのです。国費を国民的な一大行事のために使う、という大義名分がありますから。昭和39年、令和2年開催予定の東京五輪もそうですが、大会そのものに使うお金よりも、周辺整備のために使うお金のほうがはるかに大きい。道路や鉄道、施設などです。日本人は国民性なのか、五輪が大好きですから、国費を使うということにあまり文句を言いません。関係経費で新幹線の建設費用も賄ってしまう。東京五輪と東海道新幹線、長野五輪と長野新幹線、同じ構図です」

 老川さんによると、前回の東京五輪の関連事業費の総額は約9兆5千億円で、そのうち東海道新幹線整備が約39%、地下鉄が約19%、道路が約18%を占めました。新幹線のウェートの大きさが分かります。

 昭和39年の東京大会では、「東京大改造」と言われるほど、首都高速道路の整備なども同時に行われました。それが結果的に、高度経済成長をけん引したと老川さんは言います。それは、他の五輪候補地だったデトロイト、ウィーン、ブリュッセルを意識したものでした。

 「前回の東京五輪の時のキャッチフレーズの一つに、東京を欧米並みの一流都市にするというものがありました。建設ラッシュで、ホテルやオフィスビルが次々と建ち、新幹線もその一環でした。経済史的に言うと、日本の高度経済成長は、生活水準が戦前並みに戻った昭和30年(55年)から、オイルショックの昭和48年(73年)までと言われていますから、五輪と新幹線の昭和39年はそのちょうど中間点なのです。極端に言えば、新幹線が開業していなければ、後半の高度成長はなかったかもしれません」

同時期には集団就職列車も

集団就職で上京した「金の卵」を伝える紙面。春の「恒例行事」だった

 その経済成長を支えていたのが、地方から大都市に流れ込んだ若年層の労働力でした。中学卒業後、すぐに大都市の工場や商店などで働く若者は「金の卵」と言われ、地方から都市に向かう「集団就職列車」は、春の風物詩と言える光景でした。工場地帯だった川口市に生まれ育った老川さんも、そんな「金の卵」たちを見て育ちました。

 「東京駅が新幹線の出発点だとすれば、上野駅などは集団就職列車がやって来る到着点ですよね。この二つが日本の高度経済成長を支えていたと考えると、非常に対照的です。高度成長の原風景です」

 中小企業を営んでいた老川さんの家にも、集団就職で上京した若者が住み込む寮があり、母親がご飯の世話をしていた姿を今でも覚えているそうです。

 「道路が砂利道だったのが舗装され、家の前を通るトラックの台数が年々増えていくのを実感していました。自分の家でも運送用のトラックを持っていたので、集団就職で来た若者が運転する横に座って、あちこち連れて行ってもらいました」

 兄にせがんでビルディングというものを見に東京まで出かけたのもこの頃です。霞が関ビルでも何でもなく、普通のビルでしたが、子供心に鮮烈な印象を残したと言います。

 「ほんとうに、新幹線ができた前後で日本は大きく外形的にも変わりました。今では、北海道から鹿児島まで新幹線があり、当時を知る者からしたら信じられない気持ちです」

新幹線の光と影

 しかし、新幹線の栄光の影には、「新幹線公害」と呼ばれる騒音や振動の問題があり、裁判にもなりました。今では列車の性能が上がり、騒音や振動は往時に比べて低く抑えられるようになりましたが、東海道新幹線開業からしばらくは大きな問題として、マスコミなどでも大きく取り上げられました。

 「東北新幹線が開業した際には、東北の人たちは喜びましたが、埼玉県の南部などでは激しい反対運動がありました。そういった負の部分も忘れてはいけないと思います」

 また、老川さんが指摘するのは、新幹線網の発達によって、東京一極集中がますます進んだ点です。国土の健全な発達という視点から見た場合、そこには大きな問題が横たわっていると話します。

 「新潟の人と話していたら、上越新幹線の開業以降、それまで新潟大に進学していた学生が、東京の私大に行くようになったと言っていました。東京に対する心理的な距離が近くなったのでしょう。長い目で見るとマイナスの側面が必ずあります。そうしたことを総合して、今後の新幹線やリニア整備を進めていくべきでしょう」と老川さんは考えています。

(クロスメディア部 塩崎淳一郎)

  老川 慶喜(おいかわ・よしのぶ) 昭和25年(1950年)3月、埼玉県生まれ。立教大大学院を経て、立教大学経済学部教授、跡見学園女子大教授を歴任し、現在は立教大名誉教授。昭和58年(1983年)、鉄道史学会設立に参加。「日本鉄道史 幕末・明治篇」「日本鉄道史 大正・昭和戦前篇」(いずれも中公新書)などの著作がある。

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