食べること 生きること~歯医者と地域と食支援 五島朋幸
医療・健康・介護のコラム
硬いものもかめる入れ歯が入ったのだが……本人に使う気なし
ケアマネジャーの千堂さんからの依頼で訪問することになった鹿谷清一さん(仮名、73歳)はアパートで一人暮らし。脳こうそくの既往歴があり糖尿病も進行しています。まひは残らなかったものの体の機能が低下し、移動には歩行器が必要になりました。かなり年季の入ったアパートの2階に上がり鹿谷さんの部屋の前に立ちましたが、呼び鈴がありません。仕方なくドアをノック。
「おぉ!」
「こんにちは。歯医者ですけど」
「おぉ…」
ドアを開けると雑然とした部屋にものすごいタバコの臭い。部屋全体もヤニのせいか黒ずんでいます。ベッドに腰かけた鹿谷さんが不思議そうにこちらを見ているので、「訪問の歯医者の五島です」と頑張って笑顔であいさつしてみましたが、鹿谷さんの表情はピクリとも変わりません。こちらの表情も硬くなってしまいました。
上下3本ずつの歯で、菓子パンやカレーで暮らす
「鹿谷さん、歯がなくて困っているとお聞きしたんですが……」
「そんなことねえよ」
空気が硬直してしまったので会話もそこそこに、口の中を見せてもらうと上下に3本ずつしか歯が残っていませんでした。
「鹿谷さん、入れ歯はお使いじゃないんですか?」
「ないよ」
「じゃあ、どんなもの食べられているんですか? お困りじゃないですか?」
「いや、別に。ほら、それ」と、ベッドサイドを指さしました。そこにコンビニの袋があり、菓子パンがいくつかとカレーや親子丼などが5食ぐらい入っていました。
「入れ歯が入ると、もっと硬いものとか食べられますよ。しっかりかめるし。どうですか、入れ歯を作りませんか?」
「うん、まぁ」
それから1か月ほどかけて上下の部分入れ歯を作りました。
「鹿谷さん、できましたよ、入れ歯!」と、テンション高めで入っていったのですが、本人のテンションは相変わらず。
「さぁ、入れてみますよ!」
上を入れ、うまく入ると下を調整しながら入れていく。最後は上下を入れ、赤い短冊状のセロハンを噛ませながら、噛み合わせの調整をしました。落ち着いたところで「鹿谷さん、どうですか?」
「……」
長い沈黙。恐る恐る「どうですか、痛いところはないですか?」
少し口を動かして「痛くはない」
そして沈黙。
「どうですか?」
「まぁ」
「じゃあ、今日、少し硬いせんべいを持ってきているので噛んでみましょう。鹿谷さん、嫌いじゃないですか?」
「あぁ」
「じゃあ、ちょっとこれ、食べてみてください」
一口大の焦がし醤油(しょうゆ)せんべいを手渡す。鹿谷さんはそれを口に入れると、最初はちょっと口の中で泳がせていましたが、すぐにゴリッ、ゴリッという音を立てて噛み始めました。よっしゃ、よっしゃと思いながら、こちらは笑みが出てきたのですが本人は相変わらずの無表情。
「どうですか、噛んでみて。硬いものも食べられますね」
「……」
使える入れ歯を使わない
1週間後、鹿谷さんのアパートに訪問。まぁ、最初は痛みなども出るかもしれないけど、硬いものを食べられたことは自信になっているだろうと、期待を高めで部屋に入りました。
「鹿谷さん、こんにちは。どうでしたか、入れ歯は」
「ん? これ?」と言って、ベッド脇のテーブルに目をやった。そこにはとてもきれいな状態で入れ歯が置いてありました。先週入れて、すぐに外してそのまま。
「痛みありましたか?」
「いや」
「噛み合わせは……」
「別に」
「入れたら硬いもの噛めますよ」
「……」
その後、数回訪問しましたが、入れ歯を使用することはありませんでした。歯がしっかりしていて噛んで食べるということは理想です。しかし、実際の現場の中で、本人の生活や価値観の中でそれを求めない方もいます。実は鹿谷さん、健康のことを考えてケアマネジャーからは、配食弁当の利用の提案をされていたのですが拒否しました。本人的に、今困っていないからです。おなかがすいたらコンビニカレー、小腹が空いたら菓子パンをかじる。血糖値のデータは悪く、医者からは生活改善を指示されています。周りはいろいろ工夫しているのですが、本人は変わりません。
一人の人を支えるといっても容易ではありません。生活を支えるだけでなく、生活への意欲をも生み出さなければならないこともあります。在宅というのはそういう現場なのです。(五島朋幸 歯科医)
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