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医療・健康・介護のコラム

[元シンクロ選手 田中ウルヴェ京さん](上)「もう水に入らなくていい」と思った五輪表彰台

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 シンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)のソウルオリンピック銅メダリストで、引退後はメンタルトレーナーやコメンテーターとして活躍している田中ウルヴェ (みやこ) さん。猛練習に明け暮れた選手時代、引退後の人生や子育て、メンタルトレーナーのお仕事、そして東京五輪・パラリンピックへの思いを伺いました。(聞き手・田村良彦、撮影・小倉和徳)

「ベルばら」みたいな美しさに憧れ

[元シンクロ選手 田中ウルヴェ京さん](上)「もう水に入らなくていい」と思った五輪表彰台

――シンクロとの出会いはいつですか。

 10歳の頃です。6歳の時から通っていた地元(東京・港区)の水泳教室のプールで、きれいなお姉さんたちが水に潜ったり脚を上げたりしている姿を目にして、私もあんなふうに人前で踊れたらなと憧れました。日本一になりたいとか、世界一になりたいという気持ちは全くなくて、純粋に「キレイだな」と思ったんです。宝塚の「ベルサイユのばら」が人気だった頃で、私にとっては大好きな水泳とベルばらがセットになったような、それがシンクロでした。

――本格的に競技を始めたのは?

 10歳でシンクロを始め、12歳で東京シンクロクラブに入って、17歳まで各年代のすべての全国大会で総合優勝しました。まあ、当時は競技人口が少なかったせいもありますけど(笑)。ソウル五輪でデュエットを組んだ同学年の小谷実可子さんと初めて出会ったのも10歳の時です。

――シンクロというと猛練習のイメージがありますが。

 小6から週6日練習があり、土日は終日プールの中でした。火曜日は夜の練習は休みだったのですが、朝3時半に起きて7時まで泳ぐという朝練があったので、結局は毎日、水に入っていました。

――オリンピックを目指すようになったのは?

 確か、中2の頃にシンクロが五輪種目になることが決まって、高3の時にはロサンゼルス五輪で先輩たちがメダルを取った姿を見て、「私もこんなふうになりたいな」と思いました。小さい頃から日記を書くのが好きで、夢は「歴史に残るような人物になる」と書くような子どもだったのですが、「シンクロで歴史に残りたい」と。

前々日に決まった出場

――そして、4年後にはソウル五輪に出場。

 実は、ソウルの時のデュエットには3人の代表選手がいて、小谷さんとペアを組むのが、私なのか、もう一人の選手なのかは決まっていませんでした。周囲は、代表に決まった時に喜んでくれたのですが、私自身は代表に決まった後も、自分が決勝の試合に出られるかどうかで、必死でした。

 小谷さんとのペアで出ることが決まったのは、決勝の前々日です。メダル死守が絶対的な目標でしたから、当時の日記を読み返すと、練習の一つ一つが厳しくてつらいし、半年間くらいは本当に追い詰められた精神状態でしたね。

――メダルを獲得した時の気持ちを教えてください。

 一言で言うと、「安心した」です。「ああ、もう水に入らなくていい」と、自分で口に出して言ったことを、鮮明に覚えています。

――五輪後は引退すると決めていたのですか。

 両耳の鼓膜に穴が開いて、耳があまり聞こえなくなっていたのが大きな理由でした。風邪を引いて中耳炎を患ったまま練習を続けていたためで、メダルを取った後は、すぐに引退すると決めていました。

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