訪問診療にできること~最期まで人生を楽しく生き切る~ 佐々木淳
もっと知りたい認知症
積極的治療は不要の指示書を残した98歳、まさにその時「死にたくない」の訴え
「生きたい」と思える環境を作るのが医療専門職の仕事
「穏やかに苦痛なく過ごせて、このまま最期を迎えられるのが一番幸せですね」。判断力の低下した本人のベッドサイドで、家族とそんな話をすることが多くなりました。しかし、本人は本当にそう思っているのでしょうか。「もう死にたい」「もう十分生きた」。それは本人がそう思っているのではなく、まわりがそう思わせているのではないでしょうか。あるいは意思表示が難しくなった本人の希望を勝手に上書きしていないでしょうか。自分の生活や人生の選択権を奪われれば、生きる希望を失うのは当たり前の話。「本人は死にたいというので、治療は中止して、このまま穏やかに」。これは本当に患者のニーズと言い切れるでしょうか。この人が「生きたい」と思える環境を作ることこそ、医療専門職の本当の仕事なのではないのでしょうか。
昨年、オランダで安楽死に関わるインゲン医師と直接お話をする機会がありました。死という選択肢は、それ以外の方法で苦痛が緩和できないときに初めて検討されるもの。医療の専門家とは、死という判断を受け入れる前に、その人の苦痛を緩和し、生活の質を高めることを考えるもの。苦痛が緩和されれば、人は生きたいと思うもの。彼女のこの言葉は安楽死を前提としたものでしたが、人生の最終段階の支援においても、まさに同様のことが言えるのではないかと思います。
日本では、生活の質を高められない、社会心理的苦痛を緩和できない、そんな社会的弱者に対して「死」という選択へのハードルが非常に低いような気がします。これは対人援助の在り方として一抹の疑問を禁じ得ません。
私は厚労省が人生会議を普及させようとしていることを悪いことだとは思わない。医療現場では、おそらく望まぬ医療やケアを受けている人、あるいは望む医療やケアを受けられていない人はまだまだたくさん存在します。人生会議が、人生を最期まで納得して生きるための一つの方法であることは言うまでもありませんし、そのことを、医療や介護の専門家のみならず、一般市民も理解していることが重要だ、というのはその通りだと思います。「人生会議」というネーミングも、その文脈で考えれば、いい得て妙、という感じがします。
変化する状況に応じて、最適な判断をみんなで考える
しかし、人生会議を通じて何かを決めておけば、それでOKというわけではありません。変化していく状況に応じて、本人にとって最適な判断をみんなで考えていく、という価値観を共有できるコミュニティー(家族・医療介護専門職を含む)を作っておくことが、人生会議が力を発揮するための必要条件なのではないでしょうか。
ここに高齢者医療費の増大、終末期医療費が非常に高額なのではないか、という議論が並行して行われていると、国はなるべく医療介護費を使わせずに高齢者を死なせたいのか、と勘ぐる向きが出てくるのもやむを得ないと思います。しかし、人生会議は必ずしも治療やケアの差し控えを意味するものでももちろんありませんし、結果として医療介護費が増えるケースもあるでしょう。
図らずも厚労省が広げてくれたこの大きな波紋。よりよく生き切るために必要なことが何なのか、それ以前に、よりよく生きるとはどういうことなのか、みんなでじっくりと考える機会にできたらと思います。
「死ぬときぐらい好きにさせてよ」
2016年に出版社の宝島社が樹木希林さんを使って作成したポスターは、ミレイの絵画「オフィーリア」をモチーフにしたものです。元の絵画は草深い小川で溺れ死ぬ前、水に浮かんだ女性の姿を美しく描いた作品ですが、ポスターでは樹木さんが小川に浮かび、「死ぬときぐらい好きにさせてよ」とあります。まさに彼女との人生会議そのもの。書店にはいまも彼女に関する本が多数平置きで並んでいます。きわどいポスターを作らなくても、日本国民は少しずつ、人生の最期の過ごし方を自分で考え始めているのではないでしょうか。
むしろ頭を入れ替えなければならないのは患者の意識にキャッチアップできていない医療専門職のほうなのかもしれない。医療やケアのミスマッチの続く現場と日々向き合いながら、僕はそう感じています。(佐々木淳 訪問診療医)
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