心のアンチエイジング~米寿になって思うこと 塩谷信幸
医療・健康・介護のコラム
88歳になった自分にとって未来のイメージは……
よく年を聞かれますが、「まだ米寿です」とお答えすると、「お元気ですね」とか「長寿だったお父上のDNAをお持ちですから」などと言われます。そして、僕は「かろうじて生きています」とか「もういつ逝ってもかまいません」とお答えしています。これは決して冗談ではなく、半ば本音です。
年齢によってイメージする未来像も変わる
人間の気持ちは面白いもので、年を経るに従って徐々に変化していきます。心の中の未来像も、その時々の気持ちに沿って変化してきました。若い時、学生時代は、未来は無限に広がっていました。憧れの世界でした。そして現役時代となると、未来を考える余裕もなく、ひたすら馬車馬のように働き続けました。
ちなみに「馬車馬のように働く」を辞書で調べると、「ものすごく働く」という意味ではありません。 馬車馬は前方しか見えないように目の横に覆いがかぶせてあります。 つまり、「脇目もふらずにいちずに働くこと」です。
その後定年を迎えると、改めて自分の周りを見渡し、これからの人生をどう生きるか考え始めます。若い時と違い、「夢想」ではなくもっと現実味を帯びた「未来像」です。
そして後期高齢者の仲間入りをすると、未来像というよりは「余生」といったほうがふさわしい将来像が生まれてきます。それは、いくばくかの「諦念」を伴ったものとなります。
人間の命を支えるのは生きる意欲だが……
ところで、人間の命を支えるのは「生きる意欲」だと言います。その「生きる意欲」が低下するのではなく、成長期や現役世代と質が異なってきているのでは、という感じです。これまでのように何がなんでも生きていたいと思うのではなく、ただその日その日を満ち足りた気持ちで過ごせれば、それで十分。結果的にそれが長寿につながったら、それも結構、というゆとりの日々ということでしょうか。先ほど諦念という言葉を使いましたが、それは適切ではないかもしれません。むしろ、これでいいんだという受容の気持ちと言えるでしょう。
昔、ある宗教学者ががんになり、がん患者としての自分の気持ちをつづった書物の中で、「ともかく生きたい、猛烈に生きたい、ただ生きたい、という感情というか欲望で全身が破裂しそうである」と書いていたのを思い出します。
そのような本能的な、生の欲望は米寿になると弱まってきたと思います。ただ、老体を支えるに十分な「生の欲望」はまだ備えていると言っていいでしょう。
社会と関わる意識も変わってくる
最近の老年心理学の分野では、高齢者の自我と社会との関わりの意識の変化が言われています。それまでは、自分、自分と良くも悪くも自己中心できました。それが周りの人、周りの社会へと関心が広がっていくというのです。
これは僕自身も感じることで、人類愛など大げさな言葉は使いたくないのですが、周りに対する配慮が自然に生まれてきたのを感じます。これがさらに進むと、宇宙の中の自分という感覚が生まれてくるようです。これからの僕自身の気持ちの変化がどう展開するか、不安でもありますが、大変楽しみでもあります。(塩谷信幸 アンチエイジングネットワーク理事長)
年齢を重ねるごとに変わる現実と夢の比率
寺田次郎 六甲学院放射線科不名誉享受
10歳にもならないのに、「優しい瞳をした誰かに逢いたい」という歌のフレーズに心を奪われた記憶があります。 多分、前向きに幸福を追える人生とそうで...
10歳にもならないのに、「優しい瞳をした誰かに逢いたい」という歌のフレーズに心を奪われた記憶があります。
多分、前向きに幸福を追える人生とそうでない人生があって、僕は後者なのかなとか今更思います。
どっちが良い悪いでもなく、幸福か不幸かでもなく、縁やスタンスの問題だと今は思います。
その選択は、個の資質もありますが、戦争の代理経験の有無ではないかと思います。
日本では大きな戦闘は今のところありませんが、戦争を題材にしたテレビ番組はいくつもありました。
それを見て何を思うか?
イスラエルの戦史の小説なんかを読んでも思いますが、目標遂行の為だけでなく、神格化された英雄の必要性の為に死ぬ命もあります。
命の価値とか、仕事上の夢や目標の価値は日常の現実と気分の間にあります。
安全と、それらを担保するカネや実績に能力のバランスをどう考えるか?
どちらも大事なわけで、さじ加減と選択の問題になります。
この自殺や過労死の多い国というのは、結局、形を変えた戦争の中で、個や組織がどうやって日々を生きて、生き残るか、問われているのではないかと思います。
小さな子供に大きな夢を持つことは推奨しても、強要するのは良くないですよね。
どうせ、夢や目標など変わっていきますし、楽しい日々や未来を担保する準備は同じくらい大事です。
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知りたかったこと
kiwiakio
母を亡くしたあと、自分の死のことを何となく考えるようになりました。私は塩谷先生の半分に満たない年齢です。まだまだ「生の本能」が満ちています。高齢...
母を亡くしたあと、自分の死のことを何となく考えるようになりました。私は塩谷先生の半分に満たない年齢です。まだまだ「生の本能」が満ちています。高齢者になるとはどういう気持ちなんだろうと思っていました。先生のコラムは大変参考になり、安心しました。歳を重ねることに不安を感じる人に、ぜひ読んでほしいと思います。
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変わりゆく複数の欲求と目標と現実の中で
寺田次郎 関西医大放射線科不名誉享受
命とか夢とか欲求とか、意味合いも感じ方も変化していくものです。 匿名の質問箱に、「お前の歪んだ性格は人生やり直しても一緒だ」とかどうこう書かれて...
命とか夢とか欲求とか、意味合いも感じ方も変化していくものです。
匿名の質問箱に、「お前の歪んだ性格は人生やり直しても一緒だ」とかどうこう書かれてきて笑いましたが、性格のどこがどうどの程度後天的に歪んでいるか否かは主観的かつ相対的な評価だということを記載した人がわかっていない問題があります。
人間社会において、歪んでいるという評価は珍しいとか特定意見への依存が低いという意味合いでしかありません。
多くの人間は生きたくて生まれてきたわけでもないのに、徐々に生きたいとか生きて欲求を満たし夢をかなえたいと思うのは本能や多段階欲求の諸々だと思います。
その日の欲を押し殺して、知識や実績、財を積み重ねる日もあるでしょう。
その一方で、他人や社会は満たされない感情や夢の残骸を人に求めたり、その価値観を人に押し付けたりもしますので、言動も行動も統制されてきて、個人や組織が気に入らない意見を歪んでいるとの名目で攻撃するわけです。
その判断や実行には合理性や正当性もありますが、過激な原理主義的なものはどうでしょう?
夢と現実はその多角的な意味も含めて複雑に折り重なっています。
一つの判断や行動が大きく道を変えます。
全能感や人類愛を功成り名遂げてないのに口にしたら不審に思われるでしょう。
一方で、そういう部分を若者も持つことは本来悪ではないはずです。
自分も、現実的生存戦略として他人の分からない疾患や問題を読み解けるよう非人間的なトレーニングを重ねてきて、一般人との距離感に生きづらさも多々あります。
IT時代は幸いで理解できる人の方を増やせばいいかと思って、論文投稿より新聞投稿という形で余生を過ごしていますし、その文脈や気分も色々ですが、分散投資よろしく多重人格をよくコントロールしていればいいかと割り切っています。
可視化、言語化が世界が変わるプロセスで大事なのではないかと思います。
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