食べること 生きること~歯医者と地域と食支援 五島朋幸
医療・健康・介護のコラム
死の前日に入れた総入れ歯、母の顔に戻って逝く
土曜日の夜、訪問看護師から直接、診療室に電話が入りました。
「五島先生、先生は日曜日診療されていませんよね」
「基本的には。でも何か?」
「明日、行ってもらいたい方がいるものですから」
「夕方から用事があるけど、午前中なら大丈夫ですよ」
「本当ですか! すぐ依頼状をファクスします」
依頼された患者は伊藤はるゑさん(92)。末期がんで食事も一切とっておらず、余命数日と思われる状態でした。「どうしても入れ歯を入れてほしい」という家族の希望があり、僕に依頼が届きました。
日曜日の朝は都会でも静かです。伊藤さんの表札を見つけてインターフォンを押しました。ちょっと見まわすと2階建ての一軒家ですが、とても広い敷地です。「ふ~ん」と思っていると、娘の洋子さんが出てきました。
「先生ですか。お休みに無理を言って申し訳ありません。どうぞ」と中に通されました。昭和の時代を感じる家でしたが、たくさん部屋がありました。はるゑさんの部屋は6畳ほどでベッドと洋服ダンスでいっぱいで、空間はあまりありませんでした。
使っていた入れ歯が入らない
「初めまして、伊藤さん。歯医者の五島です」と言うと、うっすらと目を開けたような。洋子さんが、「このところこんな感じなんです。これが入れ歯なんですけど」と言って、上の総入れ歯を渡されました。
「いつまで使われていたんですか?」
「入院する前だから1年ぐらい前までですかねぇ。何とか入りませんか?」
その言葉の意味することはよく理解できました。入れ歯が入っていないはるゑさんの口元はやせこけて、小さくなってしまっています。入れ歯をそのまま入れてみようと試みましたが、とても無理。唇は硬く縮こまり、その口に対して1年前に使っていた入れ歯は大き過ぎました。
唇や頬のストレッチをして、入れ歯を小さくカット
取りあえず、薄目状態のはるゑさんの頬のマッサージから始めました。目が少しトロ~ッとなってきた時、洋子さんが「お母さん、気持ちよさそうね」と声をかけました。その後、ゆっくり唇や頬のストレッチをしていくと、徐々に口の周りが軟らかくなってきました。少し唾液も出てきて口の中が潤ってきました。そこで入れ歯を入れようとしましたが、まだまだ無理。今度は持ってきた器械で入れ歯を削りました。通常は数ミクロンという単位の微調整なのですが、この時はセンチ単位で削りました。
作業中、僕の手元にいくつかの視線が集中していることに気づきました。後ろを振り向くと、洋子さんの後ろにぞろぞろと人が並んでいて、ちょっとびっくりしました。僕の表情を見て、洋子さんが「私の長女夫婦と次女夫婦です」と紹介してくれました。
家族たちに見守られて入れ歯の調整
さらに作業を続けていると、男の子2人と女の子1人が大人の足元をすり抜けて僕のすぐ横にまで入ってきました。3人とも小学校に入るかどうかの年頃。洋子さんが「うちの孫なんです。晋ちゃん、康ちゃん、モモちゃん、先生の邪魔でしょ。こっちに来て」と言いました。僕が「大丈夫ですよ」と言うと、3人は居場所を得たように僕が正座して作業している脇に座り込み、手元に視線を集中させています。
「これ、ひーばー(ひいおばあさん)の歯なの?」と晋ちゃんが質問します。
「そうだよ。これから入れるからね」
「入るの?」
「入れようねぇ」
作業が続くと、康ちゃんが僕の背中によじ登ってきました。さすがにそれはと、洋子さんが抱っこしました。
何度か試しながら、一回りどころか、二回り、三回り小さくなった上の入れ歯をそっと、はるゑさんの口に入れると、ついに口の中に入りました。その瞬間、3人の子供たちは、「入った! 入った! 入った!」と大はしゃぎです。「ひーばー、ひーばー」と騒ぎ続けるので、お母さんたちが子供たちを連れて出ていきました。
歯がないと母の顔じゃない
最初のように、はるゑさんと洋子さんと僕の3人の部屋になりました。急場しのぎで入れ歯用の接着剤を使用して、上の入れ歯を固定して終了。静かになった部屋で洋子さんが、「やっぱりねぇ、歯がないと母の顔じゃないのよ。先生、無理言って申し訳ありませんでした」
最後に、はるゑさんの手をさすりながら、「お疲れ様でした。失礼します」と言って去ろうとすると、本当にかすかな声で「ありがとう」と聞こえました。
入れ歯で表情を取り戻して息を引き取った
その翌日、再び訪問看護師から連絡がありました。
「五島先生、ありがとうございました。昨夜、はるゑさんが息を引き取られました。家族がすごく感謝していましたよ。本当にありがとうございました」
「そうでしたか」
「ところで先生、おチビちゃんに何かしました?」
「?」
「ヒーロー、ヒーローって騒いでいましたよ!」
入れ歯を入れて、「ひーばー」らしい顔を取り戻した仕事が、子供にはヒーローに思えたようです。
※氏名は仮名
(五島朋幸 歯科医)
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ガンで痩せた父は、入れ歯が合わなくなって食事が難しくなり、入れ歯を新調しました。 入れ歯が合わないと言い出した当初、家族は「柔らかいものにすれば...
ガンで痩せた父は、入れ歯が合わなくなって食事が難しくなり、入れ歯を新調しました。
入れ歯が合わないと言い出した当初、家族は「柔らかいものにすれば入れ歯はいらないんじゃないか」と積極的に動きませんでしたが、訪問歯科医があることを知り、自宅で作ってもらいました。
それから1か月ほどで父は亡くなりました。
骨と一緒に残った入れ歯の基台を見て、一生懸命食べようとしていた姿を思い出しました。
家族が協力して、やれることはやってあげたほうが思い残すことは少ないと思います。
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