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心療眼科医・若倉雅登のひとりごと

コラム

女性医師の潜在能力封じ…根が深い日本社会

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女性医師の潜在能力封じ…根が深い日本社会

 シカゴ大学社会学科教授の山口一男氏が、今年の日本医学教育学会のシンポジウムで、医学部学生の女性の割合が少ないことについて、「女性の潜在能力封じは片翼飛行」との趣旨の意見を述べています。これは医学の領域に限ったことではなく、大学教員、研究者、国会議員、裁判官などの高度専門職や、企業の管理職についても同様で、日本はいずれも経済協力開発機構(OECD)加盟国の中でも最下位に近いレベルだそうです。

 日本のこの前時代的な男性社会の源流は、文明が開化してきた明治時代にこそ顕著にみられます。つまり、文明が開化してきた社会への女性参加はほぼなかったのです。

 明治中期になっても、女性が医師になる道は閉ざされていました。切り開いた最初の人物は、1885年(明治18年)に医術開業後期試験(現在の医師国家試験)に女性として初めて合格した34歳の「荻野吟子」です。62歳で世を去るまでの生涯を描いた映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」(山田火砂子監督、現代ぷろだくしょん)が、近く封切られます。

 一方、私は、男尊女卑が当たり前だった明治時代に、たった200人余りしか誕生しなかった女性医師たちが、どう一生を送ったのかに関心を寄せて調べてきました。

 その中で、開業試験に合格して正式な医師になった日本初の眼科医・右田アサや、東京女子医大の前身である東京女医学校に学んで医師になった愛媛県内子町出身の尾崎マサノといった女性医師の生涯を、伝記的小説にして世に問いました。

 第3弾として、明治の初めまで女人禁制を頑固に守っていた高野山に開業することになった女性医師の物語「 蓮花谷(れんげだに)話譚(わたん) 」(青志社)=写真=を、先ごろ 上梓(じょうし) したところです。蓮花谷は、彼女が開業した寺院があった地名で、話譚は物語の意味です。

 漢方医学と 祈祷(きとう) しかなかった高野山に西洋医学をひっさげて開業した、山で唯一の医師でしたから、内科も、外科も、精神科も、眼科も全部やったわけですが、女性というだけで当初は見向きもされず、信頼を得るのは容易ではありませんでした。

 西洋医学といえども、当時は心電図もレントゲンもなく、問診、視診、聴診、触診が主な手段です。治療も、たとえば抗生物質が出てくるのはずっと後なので、医師は診断して重病かどうかをかぎ分け、あとは患者に寄り添って自然回復の後押しをするしか方策はなかったのです。

 しかし、この姿勢は医療の最も原点となるところで、医師の存在意義といってもいいものです。画像診断や薬物など、医学は劇的に進歩しているとはいえ、この根幹を忘れていては、現代医療も、人工知能(AI)を取り入れるこれからの医療も、心からの信頼は得られないでしょう。

 彼女が過酷な環境の中、信頼を勝ち得るのかどうかは物語を読んでいただくとして、私は、女性の医師は男性にはない優れた潜在能力があると思っています。ただ、日本社会がそれを十分発揮させる環境を整えていないのではないでしょうか。

 医学部入試での女性差別が問題になっていましたが、そこだけを改善してもだめ、根はもっと深いという山口氏の意見に大いに賛意を表したいと思います。

 (若倉雅登 井上眼科病院名誉院長) 

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201505_第4回「読売医療サロン」_若倉

若倉雅登(わかくら まさと)

井上眼科病院(東京・御茶ノ水)名誉院長
1949年東京生まれ。北里大学医学研究科博士課程修了。グラスゴー大学シニア研究員、北里大学助教授、井上眼科病院副院長を経て、2002年から同病院院長。12年4月から現職。日本神経眼科学会理事長、東京大学医学部非常勤講師、北里大学医学部客員教授などを歴任。15年4月にNPO法人「目と心の健康相談室」を立ち上げ副理事長に就任。「医者で苦労する人、しない人 心療眼科医が本音で伝える患者学」、「絶望からはじまる患者力」(以上春秋社)、「心療眼科医が教える その目の不調は脳が原因」(集英社)、医療小説「茅花流しの診療所」、「蓮花谷話譚」(以上青志社)など著書多数。専門は、神経眼科、心療眼科。予約数を制限して1人あたりの診療時間を確保する特別外来を週前半に担当し、週後半は講演・著作活動のほか、NPO法人、患者会などでのボランティア活動に取り組む。

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