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在宅訪問管理栄養士しおじゅんのゆるっと楽しむ健康食生活

コラム

1本のスプーンが起こした奇跡

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 在宅医療を受けている患者さんの中には、自分の意思や気持ちを言葉で上手に伝えられない方がいます。例えば、「背中がかゆいので () いてほしい」「メガネがずれたので位置を直して」などと言えなかったりします。食事についても、本人が「食べたいのか、食べたくないのか」わからない場面に直面することがあります。

 食欲がないから食べられないのか、それとも別の問題があるのか……。

 スプーンを口元へ運んでも、本人が口を開けなかったら? 「もう食べたくないのかな」とあきらめてしまう人が多いのではないでしょうか。

入院中、3日間の「絶食」で食べられなくなった

「スプーンなんてどれも同じと思っていませんか?」

 脳 梗塞(こうそく) の後遺症で、脳の機能障害と認知症がある80代の女性Aさんは、1年ほど前までは自分の手で箸を持ち、時間はかかりましたが、しっかりと食事を取っていました。そして軽い飲み込みの障害はあるものの、ほぼ普通の形に近いものを食べていました。栄養状態が低下してきたことがきっかけで、私が訪問栄養指導に入っていました。

 ある日、 誤嚥(ごえん) 性肺炎で市内の急性期病院に入院することになりました。

 入院と同時に絶食となり、3日間食事を取らずに点滴での治療が行われました。その結果、肺炎は改善して体調は回復してきました。しかし、病院給食が開始されても、Aさんはまったく口を開けようとしません。ご主人から、私に電話が来ました。

 「塩野崎さん、困ったよ。かあちゃんが全然食べなくなっちゃったよ」

 すぐに入院先の病院へ訪問すると、Aさんの体調は安定しており、栄養を取れればいつでも退院できる状況でした。しかし、スプーンで食べ物を口元へ運んでも、キョトンとして口を開けようとしないのです。かろうじて、「吸い飲み」で水分を取ることはできましたが、滑らかにペースト状にされた食事を、ほとんど食べずに残している状態でした。

 主治医は、「入院によって認知機能が低下して、食事そのものを忘れてしまっている状態かもしれない。早く家に帰って、いつもの環境で食事をすれば食べられるかもしれない」と言って、一日も早く退院するよう迫ります。夫は、「この状態で家に帰ってきても本当に食べることができるのだろうか?」と、不安が募った様子でした。

たかがスプーン、されどスプーン

 食事摂取に不安を抱えながらも、Aさんは退院することになりました。退院した日の夜も、口を開けることはなく、吸い飲みでジュースや栄養剤を飲むことしかできませんでした。そこで、私は一本のスプーンを試してみることにしました。

 そのスプーンは、食事動作の自立支援を導くために開発された「KTスプーン」=写真=というものです。長年にわたり「正しい食事介助技術」の普及と啓発を行ってきた、NPO法人「口から食べる幸せを守る会」理事長の小山珠美先生が考案したスプーンです。

「KT」とは「く(K)ちから た(T)べる」の略です。

 Aさんは、3日間の絶食で一時的に食べる動作を忘れてしまっている状態でした。そこで、写真のようにAさんにスプーンを持ってもらい、介護者がその手を包み込むように握って、自分の親指をスプーンの柄の先にある丸い突起にのせます。いわば「手の二人羽織状態」です。ゼリーをすくい、Aさんの口元へスプーンを運んだところ、ごく自然なタイミングで口が開き、「パクリ」とゼリーを食べたのです。あまりにも自然だったので、大変驚きました。

「体が覚えている動作」を呼び起こす

 認知機能が低下している方が、「絶食」によって食べる動作を忘れてしまうということは、医療の現場でたびたび起こります。本人にとっては、数日間も食事が提供されなかったのに、突然、目の前にスプーンが現れても、「口が開かない」、つまり体が反応しないのです。自分の手でスプーンを持つことで、その食事動作に主体性が加わり、手の動きに合わせて自然に口が開いたのです。

 このスプーンは、スプーンホールの部分が薄く、幅も小さいことも、食べやすさのポイントです。

 Aさんは、その後、KTスプーンを使っておかゆやおかずなどもスムーズに食べられるようになりました。さらに、デイサービス用、ショートステイ用とスプーンを用意して、それぞれの介護施設で使うことになりました。おかげで、入院前の体重を維持しながら、今も穏やかに暮らしています。

 私は、さまざまなお宅を訪問していますが、ご家庭ごとに多様なスプーンを使っています。柄の短いもの、長いもの、カレースプーンやティースプーン……。本人の口に合わないサイズのスプーンを使っていると、食べ物を口に詰め込みすぎたり、すすり食べをしたりして、食べ物を上手に口に運ぶことができません。Aさんのように、スプーンひとつで食べやすさや食べ方が変わるということもあります。ぜひ「ご本人に合う一本」を見つけていただきたいと思います。(在宅訪問管理栄養士 塩野崎淳子)

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塩野崎顔2_100

塩野崎淳子(しおのざき・じゅんこ)

 「訪問栄養サポートセンター仙台(むらた日帰り外科手術WOCクリニック内)」在宅訪問管理栄養士

 1978年、大阪府生まれ。2001年、女子栄養大学栄養学部卒。栄養士・管理栄養士・介護支援専門員。長期療養型病院勤務を経て、2010年、訪問看護ステーションの介護支援専門員(ケアマネジャー)として在宅療養者の支援を行う。現在は在宅訪問管理栄養士として活動。

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