訪問診療にできること~最期まで人生を楽しく生き切る~ 佐々木淳
医療・健康・介護のコラム
余命3か月のシステムエンジニアが、最後に取り組んだ仕事
現代医療は、さまざまな病気を治療可能にしてきました。しかし、老化という現象に逆らうことはできません。また老化に伴い、治らない病気や障害が増えていきます。老化や病気による衰弱が進行すると、積極的な治療をしてもしなくても、残された時間はあまり変わらない、そんな時がやってきます。この時期を「人生の最終段階」と言います。かつては「終末期」と呼んでいました。
死を受け止めらないまま逝く人も
この「人生の最終段階」は、誰にでも訪れます。そして、誰もが最終的には死を迎えます。患者さんやご家族の中には、人生の最終段階が近づいてきていることを、受け入れることができない方々がいます。主治医はもう治る可能性はないと言っているが、本当に助からないのか? 何か方法はないのか? いろんな医療機関をまわり、保険の利かない治療や民間療法を試します。しかし、生き物としての運命を変えることはできません。受け入れることを拒否したまま、死を迎える方もいらっしゃいます。どうして自分だけ、どうして大切な家族がこんなことに……。そんな悲しみや怒りとともに最期の時を過ごします。
治らないことを受け入れることから
確かに「治療をしても近い将来、死が避けられない」ということは、受け入れがたい事実です。そして、受け入れることができない方々の多くは、「治らないということを受け入れること」=「人生の終わり」と考えています。しかし、受け入れた瞬間に人生が終わるわけではありません。最期の時まで、まだまだ時間が残されています。たとえどれだけ拒絶をしようと、そしてどんなに努力をしようと、死が近いという事実を変えることはできません。
しかし、残された時間の過ごし方は、変えることができます。この時間を、変えようのない事実を否定するために使うのか、あるいは、納得できる人生を完成させるために使うのか、これは私たち自身の選択です。
50歳代で進行した肝臓がんが見つかった
僕が在宅医療を始めて間もないころ、ある50代の男性の診療を担当させていただくことになりました。 彼はフリーのシステムエンジニア。自宅のパソコンでプログラムを作り、それをクライアントに納品するという仕事をしていました。3年前に健康診断で肝障害を指摘され、病院で精密検査を受けたところ、肝臓がんと診断されました。診断時、すでに進行した状態でした。治療のために入退院を繰り返してきましたが、がんをコントロールすることがだんだん難しくなってきました。病院の主治医は彼に、もはや効果的な治療法が残されていないことを告げました。
「抗がん剤の治療を試してみる、という選択があります」
主治医の提案に対し、彼はきっぱりと否定しました。病気のことをきちんと勉強していたので、自分の病気に対して抗がん剤はほとんど効果がないことを知っていたのです。そのかわり、主治医に残された時間を尋ねました。3か月という返答を聞き、彼はすぐに退院したい、と主治医に告げました。
自宅で最期まで過ごしたいという希望を聞いた主治医は、在宅医である僕につないでくれました。退院直後、初めて彼の自宅を訪問しました。同世代の奥さん、2人の高校生のお子さん、そしてかわいい小型犬。幸せそうな家庭がそこにありました。肝機能が低下しているためか、少しだるそうでしたが、笑顔で僕のほうを見て、よろしくお願いします、と右手を差し出しました。
残された時間で、やり残した仕事を終わらせたい
3か月という余命宣告はすでにされています。残された時間をどう過ごしたいのか、単刀直入に聞いてみました。彼は、やり残した仕事を終わらせたい。そう答えました。パソコンに向かい、プログラミングを再開しました。
仕事の進行と同時に、肝臓がんも進行していきました。倦怠感や痛みの悪化に対し、ステロイドや鎮痛剤の投与を開始、腹水が増加して座って仕事をするのがつらいというので、自宅で腹水を抜く治療もしました。その後、体中に少しずつむくみが出てきて、食欲も低下してきました。眠気やだるさのために起きられない時間も少しずつ増えてきました。
僕は定期的に診療に伺い、仕事ができるよう、苦痛を緩和する治療を続けました。診療が終わるたびに、彼はいつも右手を出して、握手で別れの挨拶をしてくれました。病気を忘れるように仕事に打ち込み、死の恐怖と闘い続けていました。病気の進行とともに、握手の時間は少しずつ伸びてきました。「先生と手を握っている間は、不安が消えるんです。いままでありがとうございました」。ある時、彼はそう言って、両手で握手をしてくれました。
その3日後、彼は、愛する家族や友人たちに囲まれて、静かに旅立ちました。亡くなられた後、ご家族からお手紙をいただきました。
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