石飛幸三の『人生の最期をどう迎えるか』
医療・健康・介護のコラム
「お前の目は腐ったサバの目だ」 小学校の厳しい恩師に学んだ人の生き方
「幸せなら手をたたこう」 厳しい戦後を生きた人たちの叫び
85歳の女性の入所者が亡くなり、ホームの職員一同でお見送りしました。担当の介護福祉士が入所中の様子を 縷々 述べました。元は小料理屋を営んでいて、のど自慢大会に出たこともあるほどカラオケ好きだったとのことです。この人らしい一生を送られたのだろうと思いました。最期が近づくにつれて食べられなくなりましたが、病院で勧められた胃ろうを断ってホームに帰り、静かに旅立たれました。絵に描いたような「平穏死」でした。
この人の一生は、戦後の日本をたくましく生きた女の一生だったと思います。「幸せなら手をたたこう」。これは、厳しい戦後の世界、あの闇市をしぶとく切り抜けた、ド根性のある人たちの叫びであったはずです。それに比べて、今はモノがあふれ、フワフワした 陽炎 のような中身のない幸せをただ追い求めて、言葉だけが流れているような 虚 しさを感じます。
満州国の欺まんに反発した元開拓団員の恩師
私は、当時の広島県高田郡吉田町(現在の安芸高田市)で生まれ育ちました。毛利元就の居城のあった 郡山 の麓にある吉田国民学校(現:吉田小学校)の4年生から6年生までの3年間、18歳年上で満州開拓団員だった日山 龍登 という先生が担任でした。関東軍参謀・石原莞爾の唱える満州建国に憧れ、志願して大陸へ渡ったものの、現地で建国の理想に欺まんを感じて反発し、さらに結核で倒れて本国に送還されて、小学校教員になったという経歴の人でした。
私は先生から、「お前の目は腐っているサバの目だ」とよく言われました。今の時代では許されませんが、体罰も含む厳しい指導を受けました。最終学年の頃、その指導の一環で「先生のうちに来い」と言われて、自宅を訪ねたこともあります。日山先生のお宅は、私の家がある吉田町三丁目(商店街の中心)から峠を越えたところで、歩いて片道約一時間かかりました。帰りにはもう日が暮れていて、戦後間もない頃でしたので、懐中電燈はなく、 提灯 の明かりだけで怖い思いをして帰ってきたことを覚えています。
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