ピック病(認知症)介護『父と私の事件簿』
介護・シニア
糖尿病なのに「うるさい! 食べたいから食べるんだ」 父の部屋から見つかる大量のアメと格闘した日々
「いいかげんに手を放して! 糖尿病なんだからあきらめて」
そう父に言いながら、アメの袋を引っ張る手にますます力を入れたが、父の力もさらに強まり、袋は双方の間の空中で止まったままだ。踏ん張りながら、胸に悲しさと怒りがわいてきた。
「どうして、そんなにアメが食べたいの?」
と大声で聞くと、
「うるさい、食べたいから、食べるんだ~」
と父はわめいた。その時、引っ張り合っていた袋が破れ、アメがパラパラと袋から落ちていき、私の中で何かが切れた。もういい。好きなだけ食べればいい――。
数十袋も隠し持ち
父が額にけがをし、入院などで家にいなかった間に、父の部屋のたんすの中から数十袋におよぶアメの袋を押収した。
ピック病の症状の一つに、「やたらと甘いものが食べたくなる」ことがある。父も、診断を受ける前から、甘いものをよく食べていた。そのせいかはわからないが、認知症の診断を受けると同時に糖尿病が発覚。その後は、週に1度、糖尿病薬「マリゼブ」を服用していた。菓子パンはやめ、食事を雑穀中心にしたのも良かったのか、数値はひどくならずにすんでいた。
そうした中でも、大好きなアメだけは大目に見ていたが、数十袋も隠し持っていたとは、いくらなんでもひどすぎる。
押収した袋はほとんど捨てたが、家に戻ってきた父は、新たにアメを仕入れてきて、ひっきりなしに口に運ぶようになった。そこで、父が部屋を出た隙にいくばくかの袋を隠そうとして見つかり、引っ張り合いになったというわけだ。
病院・施設から自宅へ 始まった「奇妙な行動」
アメのことは、ひとまず思考停止しても、手術後のせん妄状態で認知症が進んだのか、長く家を離れたことによる混乱かはわからないが、帰宅後の父には奇妙な行動が多く、気を抜けなかった。
家に戻ったのは昨年9月中旬、まだ暑い時期だった。自室に入ってやけに父が静かにしているので、様子を見に行くと、毛布をかぶり、押し入れから出した電気あんかを抱きしめてテレビを見ているではないか。仰天して「何やってるの?」と聞くと、「寒いんだ!」と言う。本人の温度調節機能がおかしくなっているのだろうか。
ある時は、エアコンのスイッチの押し間違いで暖房になっており、部屋に熱風が吹いて、父は軽い脱水状態になってしまった。本人にスイッチを持たせておくと、ろくなことがないので、適温に設定した後、スイッチは私が持ち歩くことにした。
昼過ぎまで通所施設 夕食は自分でお弁当を買い
ライター業の私は家仕事が多いが、外出しなければいけないこともある。父との生活にリズムができるまでは、仕事はセーブせざるをえなかった。
けがをした後、「いつも信号を無視して道路を渡っていた」と目撃情報が寄せられたこともあったので、一人でふらふら外に出られると怖い。かといって、家で長時間、一人にしておくのも不安。一人になる時間をなるべく減らすため、契約していた小規模多機能型居宅介護の事業所への通所で、先方が可能な限り午前中から昼過ぎまでをかためる。本当は、夕方までいてほしかったが、ピック病の特徴である時計的行動ゆえか、お昼を食べ、買い物をすませると扉の前に行き、「もう帰る時間だから」と立っているそうで、致し方なかった。
ご飯関係では、以前は自分でできていたことの回復を目指した。朝食に、納豆や卵を冷蔵庫から出してごはんにかけることと、干物を電気ロースターで焼くことを教え、手出しせずに見守る。お昼ご飯は通所施設で食べ、通所先での買い物同行サービスの時に夕ご飯用のお弁当を買ってもらい、食べる時に、自分で電子レンジを使って温めてもらう。お弁当にしたのは、私が楽なことに加え、夕ご飯を私が作り置きしておくと、父が一人のときに鍋を火にかけたまま忘れ、火事でも出されたら恐ろしいから。「いっさい火を使うことのないように」と、ケアマネジャーと一緒に考えた方法だ。なので、申し訳なかったが、毎朝、母の仏壇にご飯を備え、お線香をたく習慣は回復させなかった。すでに仏壇の前の畳には、焼け焦げた跡がいくつかあったからだ。ケアマネジャーからは、「何があるかわからないから、マッチやライターの類は全部処分して」と言われていた。しかし、私はバタバタした生活の中で、それを実行していなかった。決して忘れてはいけないことだったのに。
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