いのちは輝く~障害・病気と生きる子どもたち 松永正訓
医療・健康・介護のコラム
障害のある胎児の中絶は「母親の権利」なのか?…女性解放運動と水子供養ブームに見る国民感情
赤ちゃんに病気や障害のあることを理由に人工妊娠中絶することは、法的に認められているわけではありませんが、母体保護法に設けられた「経済的理由」という堕胎罪の例外規定にこじつけて実施されています。
では、法的に認められたケースなら、中絶は倫理的に何の問題もないのでしょうか? 法律というのは、それを破ったら社会が立ち行かないという最低限のルールであり、法の範囲の中であれば、すべて倫理的に正しいというわけではありません。その一方で、「中絶するか否かを決めるのは女性(母親)の権利である」という主張もあります。
堕胎罪は空文化している?
「経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのある」場合、日本では中絶が可能になります。たとえ年収が1000万円あっても、生活が苦しいと言えば認められてしまいます。いや、医師は、妊婦の経済的状況など実際にはたずねないでしょう。そのような実情から、「堕胎罪は事実上、空文化しているのだ」という指摘もあります。
「空文化しているならば、堕胎罪そのものをなくした方がいい」という意見も出てきます。日本の女性解放活動家たちも、それを目指した時期がありました。
しかしそれは、今に至るまで実現していません。なぜでしょうか?
時代により態度を変える「政治」
政治を行う側は、時代によって中絶に対する態度を変えてきています。戦後は人口を減らす目的で優生保護法を導入して中絶への道を開き、労働力の確保が必要とされる高度成長期には中絶を制限しようとしました。このときは、「日本は今や豊かになったのだから」と、経済的な理由による中絶を禁じようとする動きもありました。しかし、これも実現していません。「女性の権利としての中絶」を、禁じる方向には向かわなかったのです。
ただし、堕胎罪を廃止することも、またできませんでした。少子化問題がこれだけクローズアップされる現在において、政治が簡単に堕胎罪廃止に向かうことはないでしょう。
呼吸していないが、心臓は動いていたわが子
しかし、これは政治だけの問題ではないと思います。やはり、多くの国民が中絶に対して良いイメージを持っていないことに理由を求めることができるのではないでしょうか?
私は『A Child is Born 赤ちゃんの誕生』(あすなろ書房)という写真集を持っています。子宮内の胎児の姿を、特殊な撮影法で、早期の段階から時間の流れに沿って記録したものです。こうした写真集は1960年代から出版されています。胎児の生命を何よりも尊いと考える写真家たちが、「可視化された胎児」を写真によって大衆に提示し、「胎児は生きている」というメッセージを放ったのです。
この写真集を見ていくと、私は職業柄、どうしても22週あたりの胎児の写真で手が止まってしまいます。わが国の法律では、22週までであれば中絶が認められています。しかし、この写真を見れば、20週の胎児も「完成した赤ちゃん」だと、誰しもが思うでしょう。
少し専門的なことを書くと、妊娠11週までを初期中絶と言い、その手段は「 掻爬 」です。つまり、子宮の中を 掻 き出してしまうのです。一方、12週から21週までを中期中絶と言い、「分娩」という形式を取ります。つまり、お産です。陣痛促進剤を使って無理やり産ませるわけです。強い痛みを伴いますし、当然のことながら分娩の後、女性に喜びはありません。私の友人の産科医には、「こんなに 虚 しいことはない」と言う人もいます。
22週未満の赤ちゃんは、肺が成熟していませんから子宮の外では生きられません。つまり、体外での生存限界が22週であり、22週未満を「親の付属物」と考え、22週以降を「独立した命」と考えるのです。
そうは言っても、分娩で出された胎児が「死産」という形で埋葬されるのは、やはり痛ましいことです。
私たち夫婦の第2子は死産でした。24週で突然、破水が起こり、分娩に進んでしまいました。生まれた女児は620グラムでした。連絡を受けて、手術室にいた私は大急ぎで産院に駆けつけましたが、産科の医師から「死産でした」と告げられました。赤ちゃんに会ってみると、確かに呼吸はしていませんが、まだ心臓は動いていました。
中期中絶された胎児も、同じような形を取ります。心臓は動いていますが、呼吸はしません。ちょっと情緒的な表現をすれば、窒息して命が絶えるのです。
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