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<カネミ油症 苦難の50年>五島の88歳 「罪なき人の犠牲繰り返すな」

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 西日本を中心に大規模な食中毒被害をもたらしたカネミ油症の発覚から50年となった。認定患者の中里益太郎さん(88)は長崎原爆で被爆し、二重の苦難を強いられた。「原爆も油症も人間が起こし、何の罪もない人たちが犠牲になった。決して繰り返してはならない」と力を込める。

長崎で被爆後さらなる悪夢

 

<カネミ油症 苦難の50年>五島の88歳 「罪なき人の犠牲繰り返すな」

被爆とカネミ油症被害の二重の苦しみを語る中里さん(15日、長崎市で)=坂口祐治撮影

15歳で左目失明

 1945年夏。15歳だった中里さんは故郷の五島を離れ、長崎市の旧県立長崎工業学校に通っていた。学徒動員で連日、路面電車の修理作業に駆り出され、8月9日は前夜の作業に疲れて、爆心地から1・6キロの寮で眠り込んでいた。

 午前11時2分に青白い 閃光せんこう が走り、爆音で目が覚めた。崩れ落ちた建物の中から何とか抜け出したが、裸だった上半身には無数のガラス片が刺さり、左目の視力を失った。

 戦後は底引き網漁船で働いた。目が不自由なため操船には携われず、網を海に入れるなどの単純な作業ばかりだった。32歳で結婚して五島に戻り、漁協で事務の仕事を得て3人の子どもにも恵まれた。

家族全員に異変

 妻と子に囲まれ、平穏な暮らしが続くはずだった。68年夏、38歳の時に体に異変が現れた。油症による辛苦が始まった。

 首や太ももに吹き出物ができ、目やにがあふれた。「右目も失明するのでは」。毎朝、不安に襲われた。

 妻や子どもたち、隣に住む母親にも吹き出物ができた。島の診療所でも原因は分からず、かゆみ止めの塗り薬や飲み薬を処方されるだけ。同じ年の10月、カネミ油症の被害を報じるテレビニュースに目が留まった。同じ症状だった。集団検診が始まり、家族全員が油症患者に認定された。

 集落を回る移動販売車でカネミ倉庫の米ぬか油を一升瓶で買った。妻が料理したイワシやアジ、サツマイモの天ぷらを家族で食べた。安全なはずの食用油が有毒のPCBやダイオキシン類に汚染されていた。

 島では母親の胎盤から被害が伝わった「黒い赤ちゃん」が生まれた。全身の吹き出物や 倦怠けんたい 感、頭痛などで働けなくなり、命を絶つ若者もいた。

訴訟で地域分断

 「油を食べただけなのに、なぜ理不尽な目に遭わなければならないのか」。中里さんは全国統一訴訟第1陣の原告団に加わり、救済を求めて闘ったが、行政や企業の責任を追及する訴訟派と、和解を望む示談派で意見が分かれ、地域は分断された。

 裁判が終わっても、被害者団体の幹部として国やカネミ倉庫に支援の充実を訴えた。2012年には被害者救済法が成立。両者から患者1人当たり年間計24万円の支援金が支払われるようになったが、被害を受けた母親から生まれた「2世」の救済など課題は残ったままだ。

 原爆とカネミ油症。二つの惨劇に人生を 翻弄ほんろう された中里さん。「どちらも被害者の苦しみは続いている」。油症発覚から半世紀の節目に、「国や企業は被害者の小さな声にもっと耳を傾けてほしい」と言葉を絞り出した。

◇ 

カネミ油症  カネミ倉庫(北九州市)が製造した米ぬか油による食中毒被害で1968年10月に発覚した。米ぬか油を脱臭する工程で熱媒体のポリ塩化ビフェニール(PCB)や加熱によって生成されたダイオキシン類(PCDF=ポリ塩化ジベンゾフラン)が混入したことが原因とされる。翌年までに約1万4000人が保健所などに被害を届け出たが、認定患者は今年3月末現在で2322人(死亡者含む)にとどまっている。

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