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僕、認知症です~丹野智文44歳のノート

医療・健康・介護のコラム

認知症になっても変わらぬ仲間「お前が忘れても俺たちが覚えてる」

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「アルツハイマーになった」と打ち明けたら…

 退院してから1年ほどたった頃、弓道部のOB会が開かれることになり、その親友から「一緒に行こうよ」と誘われました。でも私は、「誰かの顔を忘れてしまっているかもしれない」「昔のことを思い出せなかったらどうしよう」という不安が頭をよぎり、「俺、あんまり行きたくないんだよな」と答えたのです。

 すると彼は、「みんなに認知症と言えばいいさ」と言うのです。私も心の中では、学生時代の仲間には、病気のことを知ってもらいたいという気持ちもありました。親友の言葉で決心がつき、出席することにしたのです。

 お店に着くと、7、8人が集まっていました。数年ぶりの再会でしたが、すっかりいつものうち解けた雰囲気でした。

 みんなの前で、何げない感じで「実はアルツハイマーになっちゃってさ」と言いました。すると先輩たちが、「この年になれば、何かしら病気があるもんだよ」「俺もこんな病気なんだ」と、口々に自分の持病のことを話し始めたのです。私を励まそうという思いやりが伝わってきて、胸が熱くなりました。

 そして「次に会うときに、みんなのことを忘れていたらごめんね」と、冗談めかして言うと、「お前が忘れても、俺たちが覚えてるから大丈夫」「忘れないように、定期的に会おうよ」と言ってくれたのです。

一生の宝物…人とのつながりに支えられて

 それまでは、「認知症だと知ったら、みんなはどんな反応をするだろう」「そのまま縁が切れてしまうのではないか」と、心配でたまりませんでした。ところが病気のことを打ち明けても、それまでと全く変わらない調子で「大丈夫」と言ってもらえたのです。

 今後、症状が進んだら、本当にみんなの顔を忘れていくかもしれません。しかし、代わりにみんなが私のことを覚えていてくれるのです。そう考えるだけで、なんと心強いことか。忘れることを恐れていた私が、「忘れてしまっても、いいじゃないか」と思えた瞬間でした。

 その後、数多くの当事者と知り合い、認知症になったら周りの人が去っていったという話をたくさん聞きました。もしもあの時、認知症になった自分をみんなに受け入れてもらえなかったら、病気をオープンにして講演などを行うことも、活動を通じて新しい出会いに恵まれることもなかったかもしれません。

 親にしてみたら「部活ばかりで勉強もしないで」と思っていたんじゃないでしょうか。でも、おかげで一生の宝物を手に入れました。それが今、私が認知症とともに歩む支えになっているのです。(丹野智文 おれんじドア実行委員会代表)

 7月から、毎月第4火曜日(原則)に更新します。

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丹野智文(たんの・ともふみ)

 おれんじドア実行委員会代表

 1974年、宮城県生まれ。東北学院大学(仙台市)を卒業後、県内のトヨタ系列の自動車販売会社に就職。トップセールスマンとして活躍していた2013年、39歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断を受ける。同年、「認知症の人と家族の会宮城県支部」の「若年認知症のつどい『翼』」に参加。14年には、全国の認知症の仲間とともに、国内初の当事者団体「日本認知症ワーキンググループ」(現・一般社団法人「日本認知症本人ワーキンググループ」)を設立した。15年から、認知症の人が、不安を持つ当事者の相談を受ける「おれんじドア」を仙台市内で毎月、開いている。著書に、「丹野智文 笑顔で生きる -認知症とともに-」(文芸春秋)。

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