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僕、認知症です~丹野智文44歳のノート

コラム

認知症になっても変わらぬ仲間「お前が忘れても俺たちが覚えてる」

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私の著書『丹野智文 笑顔で生きる―認知症とともに―』の出版祝賀会が仙台市内で開かれた際には、親友(右)も駆けつけてくれて、壇上で思い出を語り合いました(2017年8月)

共に弓道に明け暮れた中高生時代

 やりがいのある仕事と明るい家庭に恵まれ、順風満帆だった私の人生に突然、認知症という波乱が訪れました。勤務先では、自動車販売の営業から事務に配置換えになり、生活が一変する中、それまでと全く変わらないことがありました。中学時代からの親友とのつきあいです。

 仙台市内の中高一貫の男子校に入学した私は、教室で隣の席に座っていた彼と仲良くなりました。そして自分が弓道部に入ると、強引に誘って入部させたのです。

 ろくに勉強もしないで部活に明け暮れていたので、成績は下から数えた方が早いくらい。その私のさらに後ろにいたのが彼で、「俺もまだ大丈夫かな」という妙な安心感を与えてくれるという点でも、貴重な友達でした。補習を受けるのも一緒、遅刻するのも一緒、先生や先輩に叱られる時も一緒で、周りからは「似たものコンビ」と呼ばれていました。

「俺たち障害者コンビだな」親友の言葉に救われて

 2013年の春、記憶の悪さを自覚し、認知症かどうかを調べるために東北大学病院に検査入院していた時のことです。彼から「飲みに行こう」という誘いの電話がかかってきました。

 入院していることを知っていたのは、家族と会社の上司だけでした。誰にも言いたくないと思っていましたが、30年来の親友には、「今、入院してるんだ」と話したのです。すると、すぐに見舞いに来てくれました。

 少し前から記憶が悪くなってきていたことや、医師からアルツハイマーと言われていることを話しました。この頃は、夜にベッドで一人になると不安で泣いてばかりいたのですが、心配をかけたくなかったので笑顔を崩しませんでした。

 20代のころから人工透析を受けている彼は、私の話を聞くと、「お前と俺は、社会人になっても障害者コンビだな」と言って笑ったのです。その一言が、私の気持ちをずいぶんと楽にしてくれました。

 実は彼の病気が心配で、私なりに調べてみたら、ネットには「透析患者は、10年で亡くなる」と書かれていたのです。自分が認知症になった時にも、ネットで検索すると「アルツハイマーは、2年後に寝たきりになる。10年後には死亡する」という記述が出てきました。

 ところが実際には、2人とも今も元気に暮らしています。これからも一緒に頑張っていけば、世の中で言われている“常識”など、覆すことができるんじゃないかと思えるのです。

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丹野智文(たんの・ともふみ)

 おれんじドア実行委員会代表

 1974年、宮城県生まれ。東北学院大学(仙台市)を卒業後、県内のトヨタ系列の自動車販売会社に就職。トップセールスマンとして活躍していた2013年、39歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断を受ける。同年、「認知症の人と家族の会宮城県支部」の「若年認知症のつどい『翼』」に参加。14年には、全国の認知症の仲間とともに、国内初の当事者団体「日本認知症ワーキンググループ」(現・一般社団法人「日本認知症本人ワーキンググループ」)を設立した。15年から、認知症の人が、不安を持つ当事者の相談を受ける「おれんじドア」を仙台市内で毎月、開いている。著書に、「丹野智文 笑顔で生きる -認知症とともに-」(文芸春秋)。

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