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ケアノート

医療・健康・介護のコラム

[松本秀夫さん]働き盛りに重なった介護

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実況中も母から電話

 プロ野球のラジオ実況で知られるアナウンサーの松本秀夫さん(56)は、7年間介護した母の喜美子さんを、76歳で亡くしました。40代の働き盛りと介護が重なった松本さんは「私の介護はちっともナイスゲームじゃない。スタンドからヤジを飛ばされるようなひどい試合でした」と振り返ります。

[松本秀夫さん]働き盛りに重なった介護

「母が最初に不調を訴えた年齢に自分が近づき、当時の母の不安がわかるようになった。あの時点でもっと丁寧なケアをすべきだったと悔やまれます」(東京都内で)=米田育広撮影

 父と離婚後、東京都内のマンションでひとり暮らしをしていた母が「おなかが張る」と訴えたのは1999年秋。病院で診てもらうと胆石症でした。僕は「命にかかわる病気でない」と安心したけど、ベッドに空きがなく、手術日程がなかなか決まらないことに、母は精神的に参ってしまいました。

 手術を終え退院した母は、近くに住む祖母の家に身を寄せましたが、明るかった母の気力は戻らず、食欲もあまりない。年が明けた頃「死にたい」と訴え、心療内科を受診し、2か月間入院しました。

  《シドニー五輪やイチロー選手のメジャーリーグ挑戦など多忙な実況の仕事の合間を縫って、いくつかの病院に喜美子さんを連れていった》

 実況アナとして脂がのっていた時期で「イチローの活躍を見届けたい」という気持ちが抑えられず、米国に4か月間出張。弟が「オフクロのことは俺に任せて」、母も寂しさを我慢して「大丈夫だから」と後押ししてくれました。

 それぞれの病院では「うつ状態」「認知症」など異なる診断がされ、迷路をたどるようでした。介護保険の手続きを弟が進めてくれ、週に数回デイサービスに通いましたが、便失禁も始まり、80歳を過ぎた祖母による老々介護ではもう無理でした。

 2006年、母のマンションで同居を始めました。「俺が治してやる」と意気込んで臨みましたが、今思うと、当時は自分の家庭がうまくいっておらず、介護に逃げた部分もあった気がします。

  《職場に事情を伝え、出張を減らす一方、訪問介護なども利用。月12万円ほどの介護費用は弟と折半した。当初は一緒に朝ご飯を作るなど、良くなる兆しもあったが、奇声を発するなどの異常行動や失禁も増えていった》

 ヘルパーさんが夜8時に帰った後、母は一人で留守番をしていたのですが、実況中、「まだ帰ってこないの」と、携帯電話にかかってくる。CM中に折り返して「ラジオを聴けば、いつ仕事が終わるかわかるから」と言っても、聴いてくれない。

 ストレスで酒量が増え、声が出にくくなったり、集中力を欠いたりして実況が荒れることも。心身とも疲れ果て、11年のオールスター戦では、ささやくような声で「ホームラン、ホームランです」。インターネット上で 辛辣しんらつ に批判されました。

 ある晩、母が「眠れないよ」と起こしに来ました。「頼むよ、明日は実況なんだ」と言っても、また来る。運命を呪いました。「やめてくれって言ってるじゃないか」とどなり、腕をたたいてしまった。

 ショートステイの職員があざに気づき、連絡を受けたケアマネジャーから「このままだと2人ともぼろぼろになってしまう。少し離れましょう」と言われました。母は「私が悪かったから」と決して僕を責めなかった。逆にこたえました。それからはショートステイを頻繁に利用しました。

 後悔したものの、「二度とやらない」と言い切れないものを感じて……。野球に例えるなら、投手の責任イニングとされる5回を投げ切らないうちに火だるまになってしまった。もう限界でした。

  《12年、ケアマネの勧めで申し込んでいた特別養護老人ホームに空きが出て、喜美子さんは入所した。2週に1度、帰宅するのを楽しみにしていたという。しかし 大腿骨だいたいこつ 骨折を機に衰弱が進み、翌年、喜美子さんは世を去った》

 「ここからまた元気に」と思っていたので信じられなかった。その夜、母に寄り添って寝ました。でも、亡きがらになってからでは遅いですよね。母が「眠れない」と言った夜、照れを乗り越えても添い寝してあげればよかった。

 実況のように色んな角度から物事を見られたら違ったかもしれないが、母親のことに関しては視野が狭くなった。

 ただ、お世話になったケアマネさんは「喜美子さんは一緒に暮らせて絶対にうれしかったと思う」と言ってくれた。母と同居したことは間違いでなかったと、今も思っています。(聞き手・久場俊子)

  まつもと・ひでお  1961年、東京生まれ。早稲田大卒業後、ニッポン放送に入社し、ラジオのプロ野球実況やバラエティー番組のパーソナリティーとして活躍。2017年からフリー。16年には「熱闘!介護実況 私とオフクロの7年間」(バジリコ)を出版した。

  ◎取材を終えて  滑らかな語り口でリスナーを魅了する松本さんだが、取材中、何度も声を詰まらせて涙を浮かべた。息子の心に占める母の存在の大きさを感じ、切なかった。介護という未知の海で、おぼれそうになったこともあったろう。「もっとこうすればよかった」という言葉を度々口にしたが、仕事盛りに母と同居して介護する大変さは察するに余りある。大切な人だからこそ難しいこともあると教わったように思う。

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