yomiDr.編集室より
医療・健康・介護のコラム
在宅死の時代、家族と医療・介護職が共に悼む場
訪問看護ステーションで「遺族会」
JR金町駅(東京都葛飾区)に近い小さなビルの入り口に、生花で彩られたウェルカムボードが置かれていました。真ん中に貼られたポスターには「遺族会 さくらさくら」とあります。三々五々、訪れた人たちが、ポスターを目印に次々とビルの中へ入っていきました。
「遺族会」は、このビルに事業所を置く「訪問看護ステーション はーと」が、昨年亡くなった利用者をしのぶために開きました。今年で3回目になります。
今回、出席したのは、そのうち14人の家族計20人と、「はーと」と系列施設の看護師や介護職員、故人を担当していた外部のケアマネジャー、医師らを合わせた約60人です。普段は地域交流活動に使われている一室に祭壇が設けられ、家族が持ち寄った遺影や思い出の品が並べられました。
亡くなった利用者103人全員の名前が読み上げられました。黙とうに続いて、ボランティアが奏でるクラリネットやフルートの優しい音色に包まれながら、出席者が順番に祭壇に花を供えていきました。
最期の日々を語り合う
軽い食事も用意され、家族と看護師らが入り交じって、故人の思い出を語り合いました。患者の容体が波のように変化するのに一喜一憂したり、急変で慌てる家族を落ち着かせて励ます看護師の方も、実はどう対処するべきか悩んでいたり――。会話に耳を傾けていると、家族と医療・介護職は、同じ目標に向かって力を合わせてきた「同志」なんだな……と感じました。その目標とは、「患者にとって、よりよい最期」です。
介護の大変さや、肉親あるいは一生懸命支えてきた人を失った悲しみ、「もっといいケアができたのでは」という後悔など、出席者それぞれに思いがあったはずです。あふれ出る涙をそっとぬぐう姿も見られましたが、閉会後、会場を出る家族と見送る職員は、みんな晴れやかな表情でした。
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最後の時間に寄り添うのは誰が適切なのか?
寺田次郎 六甲学院放射線科不名誉享受
共有するのは時間か、空間か、価値観か、そうやって考えると、看取りのパートナーとして医師という専門職は時に不適切なのではないかとも思います。 もっ...
共有するのは時間か、空間か、価値観か、そうやって考えると、看取りのパートナーとして医師という専門職は時に不適切なのではないかとも思います。
もっと言えば、距離感と関係性が難しい。
IT化や医療の高度化によって、患者さんに寄り添うことと専門家として患者と向き合うことの乖離がすすみ、一人の人間が複数の思考回路や立場役割を使い分けるのがますます難しくなってきました。
専門医ではないですが、画像診断というマイナーで先進な領域の学習を続けているほどに、一般の感覚との乖離に気づかされます。
医療人の家系でない人間が、医療の道に足を踏み入れる事の難しさはそこにもあると思います。
今後、徐々に塗り替わると思いますが、閉鎖空間の常識は一般常識と違います。
どちらが医学的や法律的に正しいかではなく、どちらが人の理解や心に優しいかという問題もあって、他の分野ほど労働も合理性に一気に舵を切れません。
看取りのパートナーが医療人ではなく、価値観の近い仲間であるなら、医師や家族とは違うグループ形成の形もあるのかもしれないですね。
おそらく、答えがあるというよりは、いくつかの答えの中から何を選ぶかという人生の選択の話になります。
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