ウェルネスとーく
コラム
[アーティスト・デザイナー 篠原ともえさん](下)いつも元気なシノラーの呪縛 「弱いあなたでいいのよ」と母は言ってくれた
シャイな少女を変えたスポットライト
――マルチな才能を発揮する篠原さんですが、幼少期はどんな子どもだったんでしょうか。
東京の青梅市で育ちました。自然が豊かで、川で泳いだり、山に登ったり。
性格はシャイでおとなしい子だったんです。それを心配した母が、私にバレエを勧めました。小学校4年生のときで、始めるにはちょっと遅かったんですけど、初めて舞台でスポットライトを浴びたときの喜びは忘れません。それからは、明るくなって、人前に出ることも好きになりました。
――音楽にしても、デザインにしても、ものを作ることへのこだわりは、何歳頃から始まったんですか。
手作りについては、母の影響ですね。母は洋裁が趣味で、自宅にはミシンがありました。見よう見まねで縫って、8歳頃には人形の着せ替えをする洋服を自分で作っていました。
バレエを始めてからも、実はバレエの衣装や、衣装部屋でお針子さんが仕事をしている姿が大好きでした。思えば、バレエは、芸能活動だけでなく、デザイナーの仕事をしている今にもつながる原体験だったのだと思います。
テレビ出演は島のおばあちゃんへの便り
――芸能界に進むことに、ご両親は?
喜んでくれました。とくに母はすごく応援してくれました。どうしてか、聞いたことがあります。
母の実家は孤島の青ヶ島ですから、そんなに帰省することができない。でも、私がテレビに出れば、島のおばあちゃんや親戚たちも見ることができる。いい便りになるんじゃないか、と思ったのだそうです。
デビュー15周年の 凱旋 ライブを青ヶ島でやったときは、おばあちゃんも涙を流して喜んでくれました。
――芸能生活は、もう20年を超えたんですね。自分が変わったと思う点はありますか。
今思うと、10代のときはプレッシャーが大きかったんです。いつも元気で明るくなきゃいけない。つらいことがあっても、誰にも弱音を吐けない。両親に対してもそうでした。
それが、あるとき短い休みに青梅の実家に帰ると、母がこう言ってくれました。「私たちの前では、弱いあなたでいいのよ」
両親は、私の気持ちを分かってくれていたんです。それからは、少しずつ甘えることもおぼえました。20代半ばのことです。
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