安田記者の「備えあれば」
医療・健康・介護のコラム
終末期の希望 熟考しよう(最終回)
高齢になり、治る見込みのない病で死期が迫った場合、延命治療はしないでほしい――。私がこんな希望を持ち家族に伝えたのは、2012~13年に父の終末期を経験したからです。
脳 梗塞 で倒れた父は、リハビリ病院で点滴を受けていました。栄養や水分を点滴で補う必要があったのです。ところが父は、腕に刺された針ほどの細い管を手で抜こうとします。
後遺症で話すことはできません。「痛い」「不快だ」「管を抜いてほしい」。父は訴えているようでしたが、私たち家族は、どうしてよいかわかりません。看護師の目が届かない時間帯もあるため、父は両手に、指の部分が分かれていない手袋をはめられてしまいました。
退院後の行き先を有料老人ホームと決めたのは、父ではなく家族です。父の意思を確認できないからです。私は「本人の希望がわからないと、家族もつらい」と実感しました。
静岡市の行政書士で終活に詳しい石川秀樹さん(68)も、父の 卓 さんの終末期を体験しました。卓さんは16年1月、89歳の時に脳梗塞を発症。話したり、食べたりすることが難しくなりました。
終末期の医療について、卓さんから事前に希望は示されていませんでした。医師は、鼻に管を通して栄養を送り込む処置を提案。石川さんは「無駄な延命ではないか」とも考えましたが、「父の目に力があることに気づき、迷いは消えた」と話します。
卓さんは体力を取り戻し、まひした右半身の機能訓練に意欲的に励みました。鼻の管は不要になり、食べることができるまでに回復。「 清流 」という雅号を持つ書家の卓さんは、17年の正月には、左手で筆ペンを持ち作品を書いたそうです。同年7月に亡くなりましたが、石川さんは「無駄な延命ではなかった。命を使い切った堂々たる最期だった」と振り返ります。
人生の最終場面は人それぞれ。石川さんは「一日でも長く生きたいと、延命措置を望む人がいてもいい。大事なのは、本人の意思が尊重されること」と強調します。希望する最期を迎えるには、今から情報を集め、熟考し、家族などとよく話し合うしかありません。
真剣に自分の最期を考える――。それはミドル世代にとって、人生をよりよく生きることにもつながるのではないでしょうか。
このコラムは今回で終わります。読んでいただき、ありがとうございました。(社会保障部 安田武晴)
【関連記事】