在宅訪問管理栄養士しおじゅんのゆるっと楽しむ健康食生活
医療・健康・介護のコラム
[東日本大震災と食](後編) 最高の備えは「知恵」と「人」
ここに1冊の冊子があります。
「3.11東日本大震災 私はこうして凌いだ―食の知恵袋―」(写真右)
7年前の東日本大震災をしのいだ市民の「食の体験」を、公益財団法人仙台ひと・まち交流財団の「市民センター」がまとめたものです。表紙をめくると、こんな言葉あります。
それは突然の出来事だった
大きな揺れが長く続き、私達の日常は一変した
あのとき、雪が降っていた
あのとき、電気が止まりとても心細かった
寄り添い、震え、不安な夜を過ごした……
2011年3月11日午後2時46分。
激しい揺れとともに停電となり、何が起こったのかも分からず、繰り返す余震に私はただぼうぜんとしていました。幼い娘2人と一緒に仙台市内の自宅マンションにいたため、大きな揺れが来るたびに周囲がギシギシときしんで、「建物が倒壊するかもしれない。一刻も早くここから出なければ」と不安が襲ってきました。
かなり動揺はしてはいましたが、とっさに避難所に指定されている近所の小学校に乳児を連れて行くのは困難だと判断して、子どもと最低限の食べ物やオムツを抱え、マンションの平置き駐車場の自家用車に避難しました。カーナビでテレビニュースを見てはじめて三陸沖が震源だったことを知り、大津波の映像に衝撃を受けました。
「とんでもないことが起きている」という恐怖とともに、言いようのない不安に胸が締め付けられました。
ご飯を炊くことから食事作りが始まった
その日、午後8時ころ自宅に戻れましたが、水道をひねっても水が出ないことに気づいたときには、がくぜんとしました。我が家では、水の備蓄はしていなかったのです。当時、2人目の子どもへの授乳中でしたが、母乳だけだったのでミルクの買い置きもありません。
「授乳を続けるためには、私自身が水分を取らないと」と家の中を探したところ、ノンアルコールビールが12缶ありました。このノンアルコールビールが、地震発生から数日間の「母乳の生命線」となったのでした。乳幼児を育てる親御さんは私のように慌てることがないよう、災害時に備えてしっかりとお湯とミルクの準備をしていただきたいと思います。
その後、「物流が止まること」で、私たちの生活に何が起こるのかを、身をもって知ることになります。スーパーやコンビニエンスストアからは、まず調理加工された食べ物が消え、その後、ほとんどの食料品が売り切れてしまいました。震災当日と翌日は、ショックのため食欲もなく、買い置きしていたパンをかじって過ごしていたのですが、3日もすると温かいものを食べたくなります。幸いなことに、夫の会社の水道は使える状態だったので、そこから 汲 んできた水でご飯を炊くしかありません。停電は続いていたので、自宅にあったカセットコンロと土鍋でご飯を炊いてみることにしました。
普段は、炊飯器に水とごはんを入れてスイッチを押せば、1時間ほどでご飯が食べられるようになります。多くの人は、「ご飯を炊くこと」を炊飯器に依存しているのではないでしょうか。そんな手順に慣れきってしまうと、便利な機械が使えなくなったときに、水加減はどのくらいなのか、何分加熱すればいいのか、火加減や蒸らし時間もわからないと思います。
私は、かつて病院給食の厨房で働いた経験があるので、基本的な水加減は頭に入っていました。米の量に対して、水は1.2倍が適量です。「体積比」ですので、この割合さえ覚えておけば、計量カップは必要ありません。仮に湯飲みに精白米をすりきり1杯分とすると、必要な水は、同じ湯飲み1杯と5分の1です。
研いだ米と水を鍋に入れ、蓋をして強火にします。沸騰したら中火にして、水分がほとんどなくなると、沸騰する音が小さくなります。鍋から「ピシッピシッ」という音が聞こえてきたら、火を止めて5分ほど蒸らします。私は、カセットコンロのガスを節約するために、沸騰して1~2分ほどしたら火から下ろし、バスタオルや布団にくるみ「保温調理」をしました。保温時間は30分ほどだったでしょうか。土鍋を取り出し、蓋を開けると、あたたかい湯気と炊き立てのお米の香りが部屋に立ち込めました。2歳の娘が「うわあ~、ご飯だ、ご飯だ~!」とはしゃいだの覚えています。
近所の仲間と手分けして食材集め
大地震から4日目の3月15日。「市場が開いたらしい」という情報が流れてきました。「市場が開くとは、なんと希望にあふれた言葉だろう」と感じました。夫は、橋や道路、トンネルの補修や耐震補強工事を専門とする建設会社に勤務していましたので、3月13日から復旧作業のために仕事に出ていました。私は幼い子ども2人を抱えて、雪が降る中、近所のお店に並びました。手に入れた食材は、近所の友人らと分け合ったり、物々交換でしのいだりしました。
さて、冒頭で紹介した冊子は、以下の3本柱で構成されています。
(1)食の知恵袋レシピ集
(2)震災時エピソード
(3)「あのとき、役に立ったもの、欲しかったもの」アンケートの結果
「不安な状況の中でも平常心を保つことができた」など、食が笑顔を取り戻すきっかけになった話、それに「一つのすり身団子を愛犬と半分に分けて食べた」というエピソードなど、未曽有の大変な時期にも、「食べること」が人間の生きる力に火をともしてくれたと実感させられます。
もちろん、「すいとんカレー」や「サバ(サバイバル)汁」など、自宅にあった食材を上手に工夫することで、温かく、そしておいしく食べられるレシピも満載です。「自然災害大国ニッポン」で暮らしていくための知恵、そして心構えとして、本当に役に立つ1冊です。入手方法などは、公益財団法人ひと・まち交流財団の ホームページ をご参照ください。
遠くの親戚より近くの他人
その後、電気と水道が復旧して、カセットコンロの出番はほとんどなくなりました。食材の調達は、近所に住む友人と協力してなんとか乗り切ることができました。
地震から10日後、私は実家のある埼玉へ子どもと一緒に避難することになりました。魚屋さんで購入した業務用の長い板かまぼこを持って、友人の家へあいさつに出向きました。玄関先で友人に「埼玉の実家に避難するね」と言った瞬間、私は涙をこらえることができませんでした。握りしめたかまぼこに、ぽたぽたと涙が落ちました。
10日間、余震のたびに、お互いに抱き合ってこらえてきたことを思い出し、自分の家族だけが安全なところへ避難する申し訳なさで胸がいっぱいになったのです。
友人は、「そんなこと気にしないで。私たちは大丈夫……」と言いながら、やはり涙を流していました。
今でも板かまぼこを見るたびに、あのときのことが思い出されます。
「非常食の備え」はもちろん欠かせないことですが、災害時に助け合える「近くの他人とのつながり」も大切にしながら、暮らしていきたいものです。(塩野崎淳子 在宅訪問管理栄養士)
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