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いのちは輝く~障害・病気と生きる子どもたち

コラム

大江健三郎「個人的な体験」と障害児の受容

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 私の友人の医師は、ある総合病院の新生児科で20年勤めました。その間、毎年10人以上のダウン症の赤ちゃんが新生児科に入院してきたそうです。総計で約200人です。そのうちの1人の母親は、「私には無理」と宣言して一切面会に現れませんでした。その赤ちゃんは、祖父母が引き取って育てています。この親は、わが子の障害を受容できなかったのでしょうか? そうかもしれません。けれども、もしかすると、あと何年かすれば受容する心が芽生えるかもしれません。「受容には時間がかかる」というのが、私がこれまでに多くの障害児の家族を見てきた結論です。

現実を直視しない主人公

 作家の大江健三郎は、1960年代に小説「個人的な体験」と、これに続く「万延元年のフットボール」を発表し、ノーベル文学賞を受賞しました。私にとって「個人的な体験」は、青年期に読んだ忘れられない鮮烈な作品です。

 大江健三郎には知的障害を持ったご子息がいます。生まれつき後頭部が (こぶ) 状に膨らみ脳がはみ出ていたのです。医学的には (のう)(りゅう) と呼ばれます。「個人的な体験」は私小説ではありませんが、脳瘤を持って生まれて来た赤ちゃんの受容がテーマです。

【名畑文巨のまなざし】真ん中の男の子はダウン症。いつもおどけて人を笑わせようとする、とても元気で明るい子で、ファインダーをのぞいていると心が洗われていくような感覚がありました。きっと、この子の心はとてもきれいで純粋なんだなと思いました。3人のお姉ちゃんたちも彼が大好きだし、ご家族は本当に仲が良く、ひょっとしたら彼がいることで家族がまとまっているのかな? そんな気がしました。南アフリカ共和国プレトリア市にて

【名畑文巨のまなざし】
 真ん中の男の子はダウン症。いつもおどけて人を笑わせようとする、とても元気で明るい子で、ファインダーをのぞいていると心が洗われていくような感覚がありました。きっと、この子の心はとてもきれいで純粋なんだなと思いました。3人のお姉ちゃんたちも彼が大好きだし、ご家族は本当に仲が良く、ひょっとしたら彼がいることで家族がまとまっているのかな? そんな気がしました。南アフリカ共和国プレトリア市にて

 現実を直視しない主人公は、奥さんが妊娠しているのにアフリカへ旅することを夢見ていたりします。障害児が生まれてくると、自分の子どもを「怪物」と表現します。つまりわが子を完全に拒んでいるのですね。義母も同様です。受け入れようとしない。さらに産科医までが「この赤ちゃんは早く死ぬほうがいいだろう」と言い放ちます。

 主人公は自分の子どもにも自分の人生にも真正面から向き合おうとはしません。だから障害児が生まれたことを「罰」と受け止めます。これでは受容などできません。それが (こう) じて自分と赤ちゃんの関係を、「生涯の最初で最大の敵」と考えるに至ります。

心は「遠回り」「一歩後退」を繰り返す

 なかなか死なない赤ちゃんを見て、主人公はわが子を死なせてくれる医師のもとへ連れて行きます。これもある意味では大変無責任で、他人の力によって自分の困難を解決してもらおうと思っているわけです。しかし、赤ちゃんの生と死の究極の場面で、父親はある結論に到達します。

 「 欺瞞(ぎまん) なしの方法は、自分の手で直接に (くび) り殺すか、あるいは、かれをひきうけて育ててゆくかの、ふたつしかない」と。

 これが主人公にとっての受容の第一歩でした。この長編小説の最後の数ページで突如受容するのです。それも何か特別なきっかけがあったわけではありません。つまり受容には時間がかかり、他人からの説得などの明確な転機があるのではなく、自然とそういう心が芽生えることを「個人的な体験」は表現したかったのではないでしょうか?

 最後の場面では、主人公の義父母が完全に赤ちゃんを受け入れています。赤ちゃんの死を望んだ義母が、なぜ簡単に障害を受容してしまったのでしょうか? それはおそらくこの受容が「真の受容」ではなく、「仮の受容」だからです。

 私たちの受容の心は一直線には進みません。らせんを描くように遠回りしたり、一歩進んで一歩後退したりしながら進んでいきます。その証拠に、「万延元年のフットボール」では、主人公は障害児のわが子を拒んでいるのです。「個人的な体験」と「万延元年のフットボール」はまったく別の作品ですが、時間が () ってから受容が挫折しているというところに真理があると感じられます。

受容を遅らせる周囲の差別

 障害児の受容に関して「個人的な体験」に書かれていないことが一つだけあります。それは、他者からの差別の目が受容を遅らせるという視点です。障害児を取り巻く環境は少しずつ改善されていることは間違いありませんが、現在でも障害児を差別する人間がいる現実は否定しようがありません。だからこそ障害児の受容は困難で、大江健三郎も「万延元年のフットボール」で簡単ではない現実を描いたのだと思います。

 受容は「あきらめ」から始まることが多いようです。それはやがて「克服」に変化します。そして両親は「新しい価値観を構築」して、最後にはわが子を「承認」することが多いように見えます。私は微力ではありますが、そういう両親の努力に対して手を貸すことができればうれしいと思っています。

 ここまでの連載では、障害や病気を生まれもってきたわが子を受容した家族と、できなかった家族の姿を描いてきました。次回からは、障害や病気のあまりの重さに、医者が治療をすることに悩んだり迷ったりした場面について書いていく予定です。(松永正訓 小児外科医)

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いのちは輝く~障害・病気と生きる子どもたち

 生まれてくる子どもに重い障害があるとわかったとき、家族はどう向き合えばいいのか。大人たちの選択が、子どもの生きる力を支えてくれないことも、現実にはある。命の尊厳に対し、他者が線を引くことは許されるのだろうか? 小児医療の現場でその答えを探し続ける医師と、障害のある子どもたちに寄り添ってきた写真家が、小さな命の重さと輝きを伝えます。

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松永正訓(まつなが・ただし)

1961年、東京都生まれ。87年、千葉大学医学部を卒業、小児外科医になる。99年に千葉大小児外科講師に就き、日本小児肝がんスタディーグループのスタディーコーディネーターも務めた。国際小児がん学会のBest Poster Prizeなど受賞歴多数。2006年より、「 松永クリニック小児科・小児外科 」院長。

『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』にて13年、第20回小学館ノンフィクション大賞を受賞。著書に『小児がん外科医 君たちが教えてくれたこと』(中公文庫)、『呼吸器の子』(現代書館)など。2017年11月、『子どもの病気 常識のウソ』(中公新書ラクレ)を出版。

ブログは http://wallaby-clinic.asablo.jp/blog/

名畑文巨(なばた・ふみお)

1958年、大阪府生まれ。外資系子どもポートレートスタジオなどで、長年にわたり子ども撮影に携わる。その後、作家活動に入り、2009年、金魚すくいと子どもをテーマにした作品「バトル・オブ・ナツヤスミ」でAPAアワード文部科学大臣賞受賞。近年は障害のある子どもの撮影を手がける。世界の障害児を取材する「 世界の障害のある子どもたちの写真展 」プロジェクトを開始し、18年5月にロンドンにて写真展を開催。大阪府池田市在住。

ホームページは http://www.fumionabata.com/index.html

名畑文巨ロンドン展報告

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