ケアノート
医療・健康・介護のコラム
[日野原眞紀さん]義父・日野原重明を支えて
生きる場与えられた
聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんが今年7月、105歳で亡くなりました。100歳を過ぎても自ら先頭に立ち、高齢者が活躍できる社会の実現を目指した日野原さん。その裏方として支えてきたのが、次男・直明さんの妻、眞紀さん(70)でした。約半年間、自宅で介護を続けた日々について、「今が本当につまらなく感じるほど思い出深い」と振り返ります。
夫の両親の家には、20年以上前に義母が体調を崩してから通うことが多くなり、7年ほど前から完全に同居しました。義父が講演会などで国内外に行く時も同行しました。お菓子が大好きだったので、新幹線ではチョコレート菓子や柿の種を2人でポリポリと食べましたね。晩年は、家族の中で一番長く一緒に過ごしていたと思います。
日野原さんは100歳を過ぎ、車いすを利用することが増えても、10日に1度は徹夜で執筆に当たるなど精力的に活動を続けた。手帳には東京五輪・パラリンピックの時期まで予定を入れていた。
今年1月中旬の昼、洗面所でスリッパが滑り、後ろ向きに転倒してしまいました。
しかし、3月に
入院中、食べ物も飲み物も口に出来ず、日に日に元気を失っていった。入院を続け延命治療をするか、本人も希望する自宅での生活に戻すか、家族で話し合った。結局、聖路加国際病院の院長が意思を尋ねると、日野原さんは「(延命は)しない。しません」とはっきりした声で答えた。
医学的には難しかったのでしょうが、もう一度元気になると信じていました。退院後は病院から毎日、義父を慕う看護師が世話をしに訪問してくれました。私も食事の用意を担当。おしぼりの用意や
とにかく元気になってもらいたくて、毎朝のように、ベッドの脇で「うわー」と大きな声を出すようにしました。義父もまねをして返してくれました。初めは「ふわあ」だったのが、次第に「うわー」と。声を出すことで腹筋を使って体力が少し戻ったのか、水が飲めるまで回復しました。
そうすると、今度は誤嚥を防ぐためにとろみを付けた水分を飲むのを嫌がるのです。せっかちな性格で、「僕はね、コップにちゃんと入った水をゴクゴク飲みたいの」と言い張る。窒息が怖く「だめ」と言うと、怒り狂って「僕がドクターなの」と。
食事でも「ホテルのようなトーストとカリカリベーコン、目玉焼きが食べたい」と言いました。しかし、やはり誤嚥が怖く、そのまま口には入れさせませんでした。思い通りにさせてあげられず、つらかったです。
今にして思えば、自分にどこまで出来る力が残されているか、確認したかったのかもしれません。「したいことをさせてあげよう」と思っていたのに、義父の気持ちに気付いたのが遅く、今は悔やんでいます。
一時は回復の兆しを見せた日野原さんだったが、6月の後半から再び元気を失っていった。当初、出版社のインタビューに「死が怖い」と口にしていたが、最後は知人に「ちっとも怖くないの」と漏らしていたという。死を受容する姿に、眞紀さんは少し気が楽になっていた。
義父は最後の1か月、目をつぶりお祈りの姿勢をずっとしていました。牧師の家庭で育ったからでしょう。亡くなる2日前には、もうきちんと胸の上で手を組めなくなりましたが、その姿に神々しいオーラを感じました。「もう見られない」と思い、「ごめんなさい」と言って写真をこっそり撮りました。最期は安らかな姿でした。
もう少し時間がたてば、一緒にいられたことを「すごかった」と思えるのかもしれません。しかし、今の気持ちは不謹慎ながら「つまんない」。実の両親もすでに亡く、子どももいない私に、生きる場所を与えてくれたのが義父だったと感謝しています。
義父の何千万分の一もできないでしょうけれど、何か世の役に立つことをしたい。それが恩返しだと考え始めています。(聞き手・及川昭夫)
ひのはら・まき 1947年、東京都生まれ。航空会社の客室乗務員として5年間勤務。85年からはビジネス専門学校や研修会社で、コミュニケーションやマナーなどの講師を務める。現在は、医療従事者を対象にした人材育成支援なども行っている。
◎取材を終えて 取材中は日野原さんのことを「義父(ちち)」と呼んでいたが、実は普段は「パパ」、「眞紀」と呼び合っていたという。パパの声色をまねながら、時に涙を浮かべながら思い出を語る姿からは、本当の親子か、それ以上の強い絆があると感じた。知名度が高く、しかも超高齢の身内の介護は、計り知れない苦労が伴ったはずだ。しかし、2人の絆の力が、それらをすてきな思い出に変えたのだと思った。



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