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コラム

『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』 帚木蓬生著

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『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』 帚木蓬生著

生きやすさを変える「耐える力」

 聞きなれない英語が書名になっているが、この言葉は医療、教育、介護など各方面で注目され始めている。医師がどうしても治せない患者に対した時など、「どうにも対処しようのない事態に耐える能力」だ。

 教育現場では、答えの用意された問題にできるだけ早く正解を出す能力(ポジティブ・ケイパビリティ)を育てている。特に医学教育では、できるだけ早く患者の問題を見いだし、迷わずに素早く解決することを至上命令にしている。

 しかし、現実の患者は、問題が見つからなかったり、あるいは問題が複雑すぎたり、病状が重すぎて手の施しようがなかったりする。ポジティブ・ケイパビリティのみを身につけた人では務まらない場面が多く、その反対の「拙速な答えを出さずに耐える力」(ネガティブ・ケイパビリティ)の大切さを、この本は訴えている。

 著者の 帚木蓬生(ははきぎほうせい) さんは、福岡県の精神科医であると同時に、山本周五郎賞、柴田錬三郎賞、日本医療小説大賞などを次々と受賞した作家でもある。

 「私たちの人生や社会は、とりつく島がない事柄に満ちている。私自身、ネガティブ・ケイパビリティを知って以来、生きるすべも、精神科医の職業生活も、作家としての創作行為も、楽になりました。踏ん張る力がついたのです」

 帚木さんは、精神科医6年目の1984年、ネガティブ・ケイパビリティに関する英語論文を読み、この研究を始め、広めるようになった。日本ではまだ知られていない「耐える力」を紹介するため、古今東西の人物、文学、歴史を取り上げることで、この「力」を解き明かした。

 「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を最初に口にしたのは、1821年に25歳で亡くなった英国の詩人キーツだ。弟への手紙の中で「シェイクスピアはネガティブ・ケイパビリティを有していた」と書いた。シェイクスピアが深い情念を持つ主人公を登場させ、ハラハラドキドキの作品を書き続けることができたのは、論理を離れた、どうにも決められない状態を回避せずに、耐え抜く能力を持っていたから、と考えたからだ。

 それから約150年後、今度は英国精神分析学会の大御所のビオンが、キーツの言葉に着目した。「精神分析医にも、患者との間で起きることにネガティブ・ケイパビリティが求められる」と主張した。こうして、キーツの言葉が現代医学に蘇生した、と帚木さんは言う。

 帚木さんは、2005年にインドネシアの医者も看護師も薬も不足している精神科の大学病院を訪問した。現地の教授は「患者を治せないかもしれないが、トリートメントはできる」と語った。「美容院のように傷んだ髪をケアして、これ以上傷まないようにしてあげればよい。つまり、傷んだ心を少しケアして、患者さんに『めげないように』と声を掛け続ければいい、と納得しました」

 本の後半は、「帚木蓬生ワールド」とも言うべき、ネガティブ・ケイパビリティに関する帚木さんの鋭い分析が続く。

 解決できない問題が多い学校・教育現場に関しても、「教育者には問題解決能力以上に、性急に問題を解決してしまわない能力(ネガティブ・ケイパビリティ)が重要。子供たちには、どうしても解決しない時に持ちこたえていく能力(同)を培ってあげることも必要です」と主張する。

 「この概念を知っていると知らないでは、人生の生きやすさが天と地ほどに違います」

 読む前と後で、読者自身を変える“人間学”の1冊といえる。 (斉藤勝久 ジャーナリスト)

(朝日新聞出版、1300円税別)

斉藤 勝久(さいとう・かつひさ)

読売新聞東京本社社会部(司法、皇室担当、遊軍)などを経て、60歳で定年退職後、シニア記者として2013年から編集局医療部に在籍。16年7月からフリーで取材、執筆中。

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