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ケアノート

コラム

[川中美幸さん]歌が母と自分の力に

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仕事セーブし介護と両立

 

 歌手の川中美幸さん(61)は先月1日、母の久子さんを92歳で亡くしました。久子さんが心臓の手術を受けてから4年近くの間、川中さんは仕事をしながら在宅介護を続けました。「頑張って歌うことで母の心が元気になり、そのことがまた私を奮い立たせてくれた」と振り返ります。

[川中美幸さん]歌が母と自分の力に

「『人を大事にするってことはな、自分を大事にするってことなんやで』。そんな母の言葉の意味をかみしめています」(東京都内で)=岩佐譲撮影

 母は2013年の秋頃から、手押し車で少し歩くだけでも汗をかくようになりました。翌年1月には胸の痛みを訴えたので、夫が病院に連れていくと、「急性心筋 梗塞こうそく 」と告げられました。

 16時間もの手術後、医師から「お母さんはそれまでの40%の力で生きていると思ってください」と言われました。1か月半の入院生活を終えて自宅に戻った後は、ベッドで過ごすことが増えました。

 私たち夫婦が仕事に出かけると母が1人になるため、介護保険の要介護3の認定を受け、ヘルパーに昼と夜の1日2回来てもらうことにしました。ベッドを電動にし、部屋のあちこちに手すりを付けました。「トイレは自分で行きたい」という母の希望をかなえる環境も整えました。

  大阪にいた3歳の時、父が車で事故を起こし、その賠償金の支払いなどで家計は苦しかった。久子さんは大阪でお好み焼き屋を営み、歌手を目指し15歳で上京した川中さんの下積み時代を支えた。

 仕送りの千円札は、いつもソースの香りが染み付いてました。早く歌手になってお母ちゃんに家を買い、楽をさせたい――。夢がかない、お店を私の兄に任せて、東京で両親と同居を始めたのが30年前のことです。残念ながら、その年の暮れに父が病気で亡くなりました。

 母は80歳を過ぎても、私が東京に開いていたお好み焼き屋に毎日のように通って、切り盛りしてくれました。お店には、私のファンもたくさん来ます。母は冗談を言ってはケラケラ笑い、とても愛されていました。

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車いすに乗って笑顔を浮かべる久子さん(右)と川中さん(2016年夏撮影、川中さん提供)

 退院後の生活でも、そんな明るさを取り戻してほしい。そのためにも、どれだけ仕事で遅く帰っても、朝食は私が作り、母と水入らずの時間を持とうと決めました。卵焼きの具を色々と変えるなど、メニューを工夫しました。

 仕事帰りは、あえてメイクやステージ衣装もそのままで枕元に向かいました。母は「きれいやな」と喜び、その日の様子を話すと、楽しそうに耳を傾けてくれました。

 夜は、母の隣のベッドで眠るのですが、母がトイレに行く時に転倒しないか不安で、薄目を開けながら見守っていました。母がトイレで失敗して片付けが必要な時もあって、私も還暦間際で寝不足がこたえました。半身浴に入ったり日記をつけたりといった自分の時間も削られ、イライラを夫にぶつけてしまったこともありました。

  介護を始めて1年後、悩んだ末、仕事をセーブすることを決断。週1回だったデイサービスを2回にし、ヘルパーには朝も来てもらうなど、介護サービスを増やした。

 昨年は歌手生活40周年を迎え、本来なら仕事が立て込みます。しかし、「母とべったり過ごす40周年もあっていいんじゃないか」と思い直しました。私自身、母の弱った姿を見て、気持ちが沈んでいたのも事実です。

 幼い頃、母は私の冷たい手をさすって温めてくれました。今度はその手を私が毎日マッサージ。「感謝やぁ」「世話かけるなあ」と、うれしそうにしてくれました。

 母も寂しそうにしながらも、デイサービスに通ってくれました。「お母ちゃんの人生はええから、自分の人生を生きや」って。親は、子どもが元気で働いていることを望むんだとつくづく感じました。気持ちに余裕ができたことで、家では母との時間を大切にし、仕事で歌っている時は介護のことを忘れることができました。

  久子さんの貧血がひどくなり、再入院したのは今年5月。胃がんが見つかったが、手術はせず、在宅療養を始めた。

 6月以降はほぼ寝たきりで、しゃべるのもつらそうでした。9月30日の夜。訪問看護師に「血圧が測れない」と言われました。「来年の春に舞台に出るから、車いすで一緒に行こう」。そう元気づけたら「車いす……」とうなずいた後で、「もう無理やわ」と。2日間で私の本名の「 岐味子きみこ 」という名前を19回も呼び、すーっと眠るように目を閉じました。

 ヒット曲が出たら慢心を戒めてくれた母だったから、「人間の一生というものをよう見ときや」と、最後まで私に教えようとしたのでは。もっとそばにいてやれたらという悔いもありますが、歌い続けながら介護したことは正解だったと思っています。(聞き手・辻阪光平)

 

  かわなか・みゆき  1955年、大阪府生まれ。80年に発表した「ふたり酒」、98年の「二輪草」がミリオンセラーに。2011年度に文化庁芸術祭大賞を受賞。今年4月、シングル「あなたと生きる」をリリースした。来年3月に大阪・新歌舞伎座、7月には東京・明治座で特別公演を行う。

 

  ◎取材を終えて  会話が難しくなった最後の3か月は、「母の言葉を一言一句、聞き逃さないよう、メモ用紙を片時も離さなかった」という川中さん。取材中、久子さんの穏やかな口ぶりや声色を自然とまねしながら語る姿に、母への思慕が切ないほどにじんでいた。介護はただ一方が相手を支える行為だと思っていたが、互いに支え合い、成長するものだと教わった。親子の歩みを胸に深く刻んだ川中さんの歌声に耳を傾けていきたい。

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