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命の絆 臓器移植法20年

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[命の絆 臓器移植法20年](2)「生命のリレーで生き返った」息子の臓器提供受けた男性の手紙、読み返し…

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「生命のリレーで生き返った」息子の臓器提供受けた男性の手紙、読み返し…

晃一さんの臓器を提供した父親の橋本徹さん。「コウの一部がいまも元気なら本当にうれしい」と話す(横浜市青葉区の自宅で)

 <私は尊い「生命のリレー」をいただいて、まるで生き返ったような生活を送っています>

 橋本徹さん(67)の自宅には、繰り返し読み返した何通かの手紙がある。17年前に亡くなった長男の 晃一こういち さん(当時20歳)は、手紙の送り主に腎臓を提供した。

 「日本には臓器移植に否定的な意見もあるでしょう。でも私たちは、提供できてよかった」。日本臓器移植ネットワークを通じて受け取る匿名の手紙。それは息子の生きた証しでもある。

 きっかけは2000年5月、片づけそびれたこたつでくつろいでいたとき。テレビが小渕恵三氏の逝去を伝えた。首相在任中に倒れ、国民の前から突然、姿を消した政治家の死は、命のはかなさを思わせた。

 「お父さんは、自分にもしものことがあったら臓器提供をしたいと思うんだ」

 隣にいた晃一さんに話した。この4年前、脳腫瘍が見つかった晃一さん。横浜市内の自宅に近い横浜総合病院へ入退院を繰り返した。闘病中、家族は愚痴や泣き言を聞いたことがない。いつも機嫌がよく、天真 爛漫らんまん 。友達に囲まれ、入院生活さえエンジョイしていた。

 以前、橋本さんは仕事で渡米し、運転免許を取っていた。1997年に日本で臓器移植法ができる前から、米国では免許取得時に臓器提供の意思表示ができ、迷わず「Yes」を選んだ。

 「それっていいね。俺もそうしたいな」

 晃一さんらしい気さくな返答が耳に残った。

 晃一さんは、担当だった脳神経外科部長(現病院長)の 平元周ひらもとまこと 医師には、ぽつりと漏らしたこともあったという。

 「俺、もう死ぬのかな」

 「そんなことはない。一緒に乗りきろう」。励ましたが、晃一さんは悟っていたのかもしれない。

 その後、何度目かの発作で倒れ、父子の会話から間もない2000年夏、「脳死状態」と告げられた。覚悟していた橋本夫妻は、静かに受け止めたはずだ。ただ、なぜかその瞬間は記憶から抜け落ちている。

 「臓器提供は、できるんですか」

 切り出したのは妻(66)だった。それはこんな思いからだ。「本人が望んでいたことでもあるから、そうしたかった。でも本当は、だれかの中でコウが生き続けるということ、それだけがほしかった」

 臓器移植法では当時、本人の書面による意思表示がないと、脳死での臓器提供はできなかった。入院先は、脳死提供できる条件に当てはまらない病院でもあった。そのため、心停止後に提供できる腎臓と角膜を、必要とする患者に贈った。

 「臓器提供したから、いまもコウがどこかにいる気がします。アメリカのように、臓器移植が普通の医療になればいいのに」

 日本では、亡くなった人の体を傷つけることへの抵抗感や、他人の臓器をもらうことへの偏見も残る。そのためか、ドナーの遺族や移植を受けた患者、待つ患者が、表舞台で語りにくいともいわれる。

 それでも橋本さんは、名前や顔を明かして語りかけることにした。晃一さんならきっと、「いいよ!!」と明るく言うだろうから。

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