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僕、認知症です~丹野智文43歳のノート

医療・健康・介護のコラム

「認知症=終わり」ではない

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富山での交流会へ

「認知症=終わり」ではない

今夏も、竹内裕さんが仙台に来てくれました。出会いから4年たちましたが、2人とも元気です!

 2013年の秋、地元の「認知症の人と家族の会」が開いている「若年認知症のつどい『翼』」で、富山で開かれる認知症の当事者の交流会に誘われました。

 その場で「行きたい」と答えたのですが、「奥さんも一緒に」と言われて困ってしまいました。認知症の人が一人で旅に出て、何かあったらいけないということなのでしょうが、交流会には病気が進んだ人もいるでしょう。それまで認知症の人とあまり接したことがない妻を連れて行ったら、つらい思いをさせるかもしれません。

 幸い、「家族の会」の若生栄子さんが「私が一緒に行くよ」と言ってくれて、参加できることになりました。

広島からやってきた“先輩”

 出発の前日、広島から参加する認知症の男性が、私たちに合流するために仙台にやってきたのです。それが竹内裕さんでした。

 初めて会う竹内さんは当時63歳、快活でパワーがみなぎっていて、私が持っていた認知症のイメージとはかけ離れていました。こんなふうに、どこへでも一人で出かけていく認知症の人を見たのは初めてです。診断を受けたのは5年ほど前と聞いて、さらに驚きました。

 私は、病気を告知された直後にネットで「若年性認知症は進行が速く、2年で寝たきり、10年で亡くなる」と書かれているのを見て、それをずっと信じていたのです。ところが目の前の竹内さんは、診断から5年近くになるというのに元気そのものではありませんか。

 「自分が寝たきりになるまでに、なんとか妻と娘たちが暮らしていけるようにしておかねば」と思い詰めていたのは、一体、何だったのでしょう? 今となっては笑い話ですが、この時は 呆然ぼうぜん としてしまいました。

引きこもりから世界一周へ

 翌日、竹内さんと私、若生さんを含む5人で富山に向かいました。北陸新幹線の開通前でしたから、まず大宮まで行き、上越新幹線と特急を乗り継いで、ほとんど1日がかりの移動でした。

 列車の中で竹内さんは、いろいろなことを話してくれました。仕事で大きな失敗をしたことや、認知症と診断された後、そのショックで1年半くらい、ほとんど家から出られなくなったことも。「家族の会」に出会うまで、ただただ不安だった私は、「こんなに明るい人でも、やっぱり最初はそうだったんだ」と、共感しました。

 引きこもり状態の竹内さんを外に引っ張り出したのは、中学・高校時代のサッカー部の仲間でした。同窓会に強引に連れて行かれて、「何でそんなに暗い顔をしてるんだ」「認知症になっても、お前はお前だろ」と言われて、はっとしたといいます。

 それがきっかけになって、気持ちが前向きになっていったのです。一人で全国各地に出かけるようになり、「ピースボート」に乗って世界一周もしたそうです。「旅に出ると、いろいろな人と出会えるからね」と話す竹内さんに、私はすっかり引きつけられてしまいました。

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丹野智文(たんの・ともふみ)

 おれんじドア実行委員会代表

 1974年、宮城県生まれ。東北学院大学(仙台市)を卒業後、県内のトヨタ系列の自動車販売会社に就職。トップセールスマンとして活躍していた2013年、39歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断を受ける。同年、「認知症の人と家族の会宮城県支部」の「若年認知症のつどい『翼』」に参加。14年には、全国の認知症の仲間とともに、国内初の当事者団体「日本認知症ワーキンググループ」を設立した。15年から、認知症の人が、不安を持つ当事者の相談を受ける「おれんじドア」を仙台市内で毎月、開いている。著書に、「丹野智文 笑顔で生きる -認知症とともに-」(文芸春秋)。

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