僕、認知症です~丹野智文43歳のノート
医療・健康・介護のコラム
「若すぎる」と再検査、そして告知
「忘れる」のはストレスのせい?
何年もの間、記憶力の悪さを自覚しながらも、あまり深刻に受け止めずにいた私ですが、毎日、一緒に働いている同僚の顔と名前を思い出せなくなった時には、「やっぱり何か変だ」と感じました。
ただ、その時になってもまだ、「それだけストレスがひどいのかな」と考えていたのです。今にしてみれば、自分の身に重大なことが起きているのに目を向けたくなくて、無意識にそう思いこもうとしていたのかもしれません。
ストレスと診断されれば気持ちもすっきりするだろうと、医師に診てもらうことにしました。妻には心配をかけたくないので内緒にしておきたかったのですが、保険証を出してもらわねばなりません。「なんだかちょっと記憶が悪いみたいだから、病院に行ってくる」と何げないふうに話すと、少し驚いたようでしたが、「心配しすぎじゃないの」と言われました。
職場近くの脳神経外科クリニックを訪れたのは、2012年のクリスマスの日でした。昼過ぎに受け付けして、いくつか検査を受けました。診察を終えて外に出た時はすっかり暗くなっていたので、けっこう長い時間かかったのだと思います。
そこで脳神経疾患の専門病院を紹介され、「必ず、奥さんと一緒に行ってください」と言われたのです。「ただのストレスのはずなのに、なんでだろう?」と、訳が分からず、納得のいかない気持ちでした。
病室で迎えた39歳の誕生日
ぼんやりとした不安を抱えたまま、新しい年がやってきました。勤め先の自動車販売店の初売りセールでは、もやもやを吹き飛ばすようにたくさんの車を売りました。そろそろ正月気分も抜ける頃、専門病院の物忘れ外来で受診し、ベッドが空いた2月下旬に検査入院となりました。
この時、どんな検査をしたのかは、あまり細かくは覚えていません。ただ、中には体に電気を流したり、太い針を腰に刺して脳脊髄液を取ったりと、苦痛を伴うものもあって、その感覚は今でもはっきりと思い出すことができます。
ヤコブ病やパーキンソン病など、可能性のある病気を全て調べるためと聞きました。入院は2週間に及び、39歳の誕生日を病室で迎えました。
「脳に萎縮が見られ、アルツハイマーの疑いがある。だが、こんなに若い人では、これまでに診断したことがない。大学病院でさらに詳しく調べることもできますが、どうしますか」。ようやく結果が出ると、医師からそう言われました。
いきなりアルツハイマーと言われ、「どうしますか」と選択を迫られて、正直なところ戸惑いました。でもこの状況で、あいまいにしておくわけにはいきません。改めて大学病院で検査を受けることを決めました。
後輩に顧客を譲り「もう戻れない」
このことは、職場では上司だけに伝えました。すると、担当していた顧客を全て後輩に引き継ぐように指示されたのです。この販売店で働き始めてからの14年間で、400人まで増えていましたが、全て手放してしまったら、たとえアルツハイマーでなかったとしても一からやり直しです。「これでもう、営業に戻ることはできない」と悟りました。
上司は、「仕事のことは周りに任せて、しっかり調べてもらいなさい」と、私を思いやって言ってくれたのだと思います。でも私には、自分の帰る場所がなくなってしまったように思えました。
それまでは、「アルツハイマー」と言われても、「何も分からなくなる」「寝たきりになる」という程度のイメージしかなく、まだ若く元気な私にはピンとこないところがありました。しかし、この時初めて頭の中で「アルツハイマー」と自分の人生がつながり、「もうおしまいだ」という感覚がわき上がってきました。
大学病院には、3月半ばに入院しました。前の病院と同じような検査を受け、同じく2週間ほどで結果が出ました。
担当医からは、「いろいろな先生の意見も聞いた上で、若年性アルツハイマー病と診断しました」と、はっきりと告げられました。それまでは、「アルツハイマーだなんて、何かの間違いなんじゃないか」という思いも持っていましたが、二つの大きな病院で詳しく調べた結果です。これが誤りなどではないということは、理解できました。
隣を見ると、妻がそっと泣いています。私は、「俺が動揺を見せたら、彼女をもっと不安にさせてしまう」と、必死で平静を装いました。何か言えば自分も泣き出してしまいそうで、説明を続ける医師の言葉に、ただうなずくのが精いっぱいでした。
(丹野智文 おれんじドア実行委員会代表)
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