文字サイズ:
  • 標準
  • 拡大

僕、認知症です~丹野智文43歳のノート

コラム

消える記憶「何かおかしい」

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

のびのび過ごした学生時代

消える記憶「何かおかしい」

「何か変だ……と感じてはいたけれど、認知症とは思いもよらないまま、月日が過ぎていきました」

 私は1974年2月、太平洋に面した宮城県南部の岩沼市で生まれました。中学は、仙台市内の私立校に入学。大学まで一貫教育のいわゆる「エスカレーター式」だったのをいいことに、勉強そっちのけで部活の弓道にあけくれました。

 大学では経済学部に進み、卒業後は、自動車販売の「トヨタオート仙台」(現・ネッツトヨタ仙台)に入社しました。車関係の仕事は全く考えていなかったのですが、企業の合同説明会でたまたまブースに入り、担当者が大学のOBだったのに縁を感じて試験を受けたら、内定をもらえたのです。進学や就職で厳しい競争と無縁でいられたのは、恵まれていたのかもしれません。

順風満帆の社会人生活

 営業に配属され、担当エリアの住宅を一軒一軒回ったものの、お客様となかなか会えなくて、販売台数も伸びませんでした。3年後、フォルクスワーゲンの販売店に異動になった際に、「この店でトップになりたい」と思い、これまでのやり方を見直すことにしました。

 お客様にどうしたら車を購入してもらえるかと考え、まずは自分のことを信頼してもらい、気に入ってもらえるように活動しようと思いました。恋愛と同じで、好きになってもらうには、まめに連絡するのが第一です。暑ければ、「熱中症に気をつけて下さいね」、雪がふれば、「昨日の雪は大丈夫でしたか」と、「いつも気にしていますよ」という気持ちを込めて電話をかけ、はがきもこまめに書きました。

 他のスタッフのやり方も観察して、いいと思ったことは何でも取り入れていきました。どうしても経験をつむと、専門用語を使うようになってしまい、お客様が理解しにくい説明になりがちです。若いスタッフの話をそばで聞いて、わかりやすい言葉などをまねるように心がけました。

 工夫を重ねて成績が上がると、働くのが楽しくなります。ますます仕事に励み、さらに売り上げが伸びていきました。

 プライベートでは、入社の翌年に同期の女性と結婚。2人の娘に恵まれました。申し訳ないことに、帰宅は深夜、休日も会社の同僚とゴルフに出かけたりと、あまり家にいない父親でしたが、妻のおかげで子どもたちはすくすくと育ってくれました。

 大きな悩みもなく、順風満帆といっていい人生を送っていたと思います。30代半ばで認知症の症状が表れはじめた時も、最初はほとんど気にとめていませんでした。

小さな異変の始まり

 カレンダーを持って、年末のあいさつに回っていた時のことです。マンションの入り口に着くと、訪問先の部屋番号を忘れてしまっていました。自分の車に戻って確認するのですが、マンション前にくるとまたわからなくなってしまうのです。建物と車の間を何度か往復することになり、玄関先まで部屋番号を書いたメモを持っていきました。

 そんなこともあって、「この頃、なんだか忘れっぽいな」と感じたので、予定を記入していた手帳をノートに替えて、メモを書き込むようにしました。

 初めのうちは、例えば「鈴木さんにTEL」と書いておけば問題なかったのですが、そのうち、どこの鈴木さんにどういう用件で電話をするのかが思い出せなくなりました。だんだんと書くことが増え、ノートも、メモ帳程度のサイズだったのが、B5判、A4判へと大きくなっていきました。

 それでも、毎日やることを全部書き、済んだらチェックするようにしていたおかげで、なんとか大きなミスは起こさずにすんでいました。

毎日会う同僚を忘れ……

 セールスマンであれば、お客様一人ひとりの情報が頭に入っているものです。私も、店の駐車場に入ってくる車のナンバーを見れば、どのお客様かがわかりました。

 ところがある時、見覚えのないお客様が来店したので、他のスタッフに接客を指示すると、「丹野さんのお客様でした」との返事です。そう言われて改めて顔を見ても、全く記憶にありません。「会ったことはないよ」「でも、お客様が丹野さんを呼んでいますよ」――。

 何かおかしいと感じたものの、その時は、それほど深刻に受け止めていませんでした。当時、400人も担当していたので、「忙しすぎて、覚え切れないこともあるだろう」と。自分のお客様の顔を忘れるなんて、それまでは、ほとんどなかったのですが。

 そしてある日、職場の同僚の顔と名前がわからなくなりました。社内の組織図で名前を確認し、周りに気づかれることなく仕事を続けましたが、毎日、一緒に働いている仲間を忘れてしまったことに、内心では動揺していました。

 それでも、「ストレスがひどいのかな」と思い、「病気」という考えは浮かびませんでした。最初の異変から5年。2012年が、もう少しで終わろうとしていました。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

tanno_200eye

丹野智文(たんの・ともふみ)

 おれんじドア実行委員会代表

 1974年、宮城県生まれ。東北学院大学(仙台市)を卒業後、県内のトヨタ系列の自動車販売会社に就職。トップセールスマンとして活躍していた2013年、39歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断を受ける。同年、「認知症の人と家族の会宮城県支部」の「若年認知症のつどい『翼』」に参加。14年には、全国の認知症の仲間とともに、国内初の当事者団体「日本認知症ワーキンググループ」を設立した。15年から、認知症の人が、不安を持つ当事者の相談を受ける「おれんじドア」を仙台市内で毎月、開いている。著書に、「丹野智文 笑顔で生きる -認知症とともに-」(文芸春秋)。

僕、認知症です~丹野智文43歳のノートの一覧を見る

最新記事