僕、認知症です~丹野智文43歳のノート
医療・健康・介護のコラム
診断から4年。今も元気です
39歳でアルツハイマー
はじめまして、丹野智文といいます。同い年の妻と、高校生の娘2人と暮らす会社員です。生まれ育った宮城県の仙台市で、仕事はそれなりに忙しいけれど、穏やかな毎日を送ってきました。
その私が、若年性アルツハイマー型認知症という診断を受けたのは、2013年の春です。39歳の誕生日を迎えて間もない頃でした。
自動車のセールスマンとして働く中で、数年前から感じていた物忘れがだんだん多くなり、お客様の顔が覚えられなくなってきました。「ストレスのせいだろう」と自分に言い聞かせながら、脳神経外科クリニックに行くと、すぐに専門病院を紹介されました。
入院して詳しく検査したのですが、「アルツハイマーの疑いがあるが、この年齢では診断したことがない」と言われ、今度は大学病院へ。そこでやっと診断が確定しました。医師に「若年性アルツハイマーで間違いない」と告げられた時、「終わりだ」と思いました。隣をみると、妻が泣いていました。
ネットでは「2年で寝たきり」
「若年性認知症」と聞いても、それまで周囲にはいなかったし、全くイメージがわきません。ネットで調べると、「進行が早く、2年で寝たきりになる」「10年後には亡くなる」など、悪いことばかりが目につきました。調べれば調べるほど絶望的だと感じました。
「一体、自分はどうなるのか」。これからのことを考えると、自然と涙がこぼれてきました。家族が困るのではないか、まだ幼い娘たちのために親としての責任が果たせるだろうかと、不安に押しつぶされてしまいそうでした。
認知症は「終わり」じゃない
あれから4年がたちました。私は、死ぬことも寝たきりになることもなく、こうして元気に生きています。
最初は、情報も支援もなく途方に暮れるばかりでしたが、「認知症の人と家族の会宮城県支部」のつどいに参加して、不安を乗り越えた若年性認知症の男性と出会ったのが転機になりました。人生を心から楽しんでいるような笑顔に、「この人みたいに生きたい」と思えて、気持ちが前向きになっていきました。
そのうち、認知症の当事者として、講演を頼まれるようになりました。全国各地に招かれて、大勢の前で自分の体験や思いを語るなんて、それまでの人生では経験したことがありません。つたない話だったかもしれませんが、集まった人たちは皆、じっと耳を傾けてくれました。
2015年1月には、首相官邸で安倍首相と意見交換する機会を得て、認知症になっても働くことができるということを伝えました。認知症当事者が、不安の中にいる当事者の話を聞くという試みもスタートし、だんだんと活動の幅が広がっています。
認知症になったおかげで、たくさんの人と出会い、様々な経験をしました。「認知症=終わり」ではないことを、今の私は知っています。
記憶補う「相棒」
まだ若く、普通に会話ができるせいか、「本当に認知症ですか?」と聞かれることがあります。でも、症状は着実に進んでいます。
毎日の通勤では、会社の最寄り駅が分からなくなってしまうことも。お風呂の栓とふたを閉めたが、給湯のスイッチを押し忘れて、いざ入浴しようとしたら、お湯がない……なんて小さな失敗は、数え切れないほどです。
覚えられないことは、メモするしかありません。特に職場では、仕事の手順や注意点など、あらゆることをノートに記入しています。書かれていることを一つひとつ確認しながら作業を進めるので、時間はかかりますが、ほとんどミスはありません。会社の人たちに認めてもらいたい、認知症でも仕事ができるのだとわかってほしいと、私なりに考えて、たどり着いた方法です。
営業から総務へと配属は変わりましたが、同じ会社で今も働き続けていられるのは、このノートのおかげです。いつの間にか、頭の中からするりと抜け出てしまう記憶を補ってくれる、大事な相棒です。
これからは、大切なことや忘れたくないことをノートに書き留めるように、このコラムに記していこうと思います。もしもいつか私の記憶からこぼれ落ちてしまったとしても、代わりにみなさんが覚えていてくれるように。
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