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お口ケアと健康

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健康・ダイエット・エクササイズ

最期まで口から食べたい~訪問歯科医の挑戦~

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入院中に痩せて、入れ歯が合わなくなる

 東京都新宿区の住宅街。歯科医の五島朋幸さんは、リュックサックを背負って自転車で患者の家を訪問する。夫婦で診療所「ふれあい歯科ごとう」を営み、午後2時から3時間は訪問診療にあてている。

 「お邪魔します」。訪れたのは、73歳になる男性の自宅。背骨の圧迫骨折で2か月間、入院して自宅に戻ったが、足の筋肉が落ちてしまった。それに加えて肺の機能が低下し、ベッドで寝たきりの状態になり、歩いて外に出かけるのは難しい。「入れ歯が合わなくなった」ということで、五島さんに訪問診療を依頼したのだ。

口の中を診察する五島朋幸さん。入れ歯の調整をする

口の中を診察する五島さん。入れ歯の調整をする

 五島さんはこの日、新しく作った上の総入れ歯の調整に訪れた。

 「新しい入れ歯はどうですか」

 「ちょっとだけ痛みがあります」

 五島さんは「カチカチかんでください」と赤い試験紙を口に入れては、かみ合わせを見て少しずつ削って調整する。入れ歯の痛みは、かみ合わせのバランスが取れていない場合が多い。前の入れ歯は20年も使っていたが、ゆるくなってしまったのだという。訪問歯科診療は、自分で歩いて受診に来られない人が対象で、五島さんは120人の家を回っているが、全員が高齢者だ。「訪問のきっかけは、入れ歯が合わなくなったという依頼がほとんど」。訪問診療を始めて20年になるが、入れ歯が合わなくなった理由が気になっている。

 「体重が落ちると、歯茎も痩せて、入れ歯が合わなくなるのです。どうして痩せたのか聞いてみると、大半が病気や骨折で入院したのがきっかけで、入院中に痩せてしまうのです」

 この日、訪問した男性患者もそうだった。「病院のベッドで寝ていると、食欲がわかなくてね」と話していた。退院してから週3回、訪問リハビリを受けて、歩いて外に出かけられるようになろうと頑張っているが、寝たきりなので食欲が戻らないのが悩みだ。

寝たきり高齢者は病院でつくられる

 五島さんは毎日のように、こうした患者宅を訪問している。太ももの付け根の 大腿骨だいたいこつ 頸部けいぶ 骨折の治療を受けて退院した高齢の患者は、体重がもともと32キロしかなかったのに、4キロも痩せてしまった。「病院では患者さんの栄養状態を診ていないのでしょうか」。そう思わざるを得ないほど、入院中に痩せてしまった患者に次から次へと出会う。低栄養だと免疫力が低下し、口の中の細菌が気管に入って増殖し、 誤嚥性ごえんせい 肺炎にかかりやすくなる。入院中にチューブで栄養を取っていると、飲み込む力が低下し、退院しても十分に食べられないので、体力をなかなか回復できない。誤嚥性肺炎では、入院中に口からの食事を禁止されることもあり、入退院を繰り返すうちに全身状態が低下して、寝たきりになってしまう多くの患者を見てきた。街の歯科医の目には、寝たきりは病院でつくられるように見える。

 新宿区には、大学病院を始め、日本を代表するような病院がいくつもある。そんな病院も含めて、治療のために入院して、体を弱らせて戻ってくるのである。その結果、入れ歯が合わなくなり、「ふれあい歯科ごとう」の電話が鳴る。

低栄養状態で退院する高齢者

 高齢者が病気やけがの治療で入院中に必要な栄養管理がなされていないことは、都会の特徴というわけではなく、日本中で起こっているようだ。徳島県を中心に全国9都府県で26か所のリハビリや療養型の病院などを経営する平成医療福祉グループの武久洋三代表(リハビリ医)は、治療を終えてグループの病院に転院してきた患者約3万8000人の転院時の検査データをまとめてみて驚いた。栄養状態の指標である血液中のたんぱく質アルブミンの値は6割が低栄養を示していた。

 「臓器別の専門医は病気や骨折など自分が担当する治療はしっかり行っているのだと思いますが、患者の全身状態まで気が回っていないのでしょう」と言う。患者が一般の成人なら入院治療中に体力を落としても、潜在的に予備的な体力があるので、退院して日常生活に復帰すれば回復することができる。しかし、“予備力”が乏しい高齢者は入院中の低栄養で体力や筋力を低下させてしまうと、施設や自宅に戻った後、きちんとしたサポートがないとなかなか回復できない。この病院グループでは、「口から食べる」ことを重点目標に掲げて、飲み込みの機能を高め、口から食べられるようにする 嚥下えんげ リハビリなどに積極的に取り組んでいるという。武久代表は「治療のための入院が、寝たきりのきっかけになってしまうこともあります。高齢者が自立した生活を回復していくには、栄養の確保は何よりも重要です」と警鐘を鳴らしている。

 では、低栄養で入れ歯がゆるんでしまうような高齢者が自宅に戻ってきた時に、一体、だれが食べる力を回復するサポートをしてくれるのだろう。

食べる力を回復するため、管理栄養士らと協力

 「だれもいない」と気づいた五島さんは、「自分たちでやるしかない」と頭を切り替え、2009年に関係する専門職の参加を募って、「新宿食支援研究会」というグループを結成した。モットーは「最期まで口から食べられる街、新宿」。食事指導ができる管理栄養士と訪問診療を始めたのが始まりで、嚥下障害を担当する言語聴覚士や理学療法士といったリハビリ職、医師や看護師、薬剤師、介護士やケアマネジャーなど、高齢者の医療・介護にかかわる人たちが加わっている。

 「歯科医は、かめるようにすることはできますが、飲み込む訓練や、どうすればおいしく食べやすいか、という知識はありません。口から食べて元気になってもらうには、それぞれの専門職が必要です」と話す。

 嚥下リハビリでは、飲み込むための筋肉を鍛える体操や、とろみをつけたスープなどから始める飲み込みトレーニングを行う。管理栄養士は、食欲が落ちている高齢者でも食べやすい食品や食べ方を、本人の好みを知っている家族と一緒に考えて提案する。硬くて食べにくければ、30秒で済ませていたフードプロセッサーを1分かけるようにするといったきめ細かなアドバイスが日々の食事ではものを言う。

 五島さんは、サラダせんべいを食べてもらって様子を観察することがある。4分の1を食べるのに80回もかむ人がいた。高齢者はだ液の分泌量が減るが、飲んでいる薬によっては副作用で唾液の分泌をさらに抑えてしまうこともある。飲み込む筋肉の働きも低下していると、ひと口のせんべいを飲み込むのもひと苦労だ。普通の食事量を食べようとして1時間以上かかってしまうと、それでは疲れてしまって毎食は食べ切れない。そんな人には「一回の食事は30分で打ち切って、分けて食べましょう」というアドバイスが効果的なこともある。一般成人ではダイエットが気になる人が多いが、高齢になると抱える問題が全く異なる。体重を落とすのは容易だが、回復は難しい。

 厚生労働省は昨年、高齢者宅の訪問歯科診療を強化する方向性を打ち出した。東京医科歯科大学歯学部口腔保健学科の荒川真一教授は「高齢者の口腔ケアは、細菌を減らして歯周病など口の疾患、肺炎や心臓血管の病気、糖尿病など関連する全身病を予防するだけではなく、食べる機能の維持回復にも重要です。高齢者は低栄養にも配慮する必要があります」と指摘する。そのためには多職種の連携が不可欠だ。五島さんは先んじてその体制を作ってきた。

口から食べると表情が生き生きしてくる

五島さんは自転車で地域の120軒を回る

五島さんは自転車で地域の120軒を回る

 「口から食べることは生きる基本です。口と脳はつながっているので、口から食べられるようになると、表情が生き生きとしてきて、口数が減っていた人がしゃべるようになることもあります。好きなものなら食が進むので、栄養も取りやすいでしょう。免疫力が高まって肺炎の予防にもなります。生きることは食べることですよね」

 五島さんは、高齢者を訪問すると、肩から口の周り、さらに口の中に指を入れて粘膜をマッサージする。舌や頬の粘膜を刺激して動きをよくすると、唾液の分泌量が増え、ぼーっとしていた人の表情がくっきりしてくるという。高齢者のお口のケアは、口から食べて食事を楽しみ、元気でいるためにも欠かせない。高齢者を支えていこうと、五島さんは今日も自転車で新宿の街を走っている。
 (渡辺勝敏)

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