文字サイズ:
  • 標準
  • 拡大

ケアノート

コラム

[田部井政伸さん]最後は病室から山へ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

淳子さんの生き方後押し

 女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功した登山家の田部井淳子さんが昨年10月、腹膜がんで亡くなりました。77歳でした。命ある限り山に向かい続けた淳子さんを支えたのは、生涯の登山仲間でもある夫の政伸さん(75)でした。「妻は毎日を精いっぱい生きました」と伴走の日々を振り返ります。

[田部井政伸さん]最後は病室から山へ

「妻に尽くした、なんて思いません。同じ時間を刻むことができて、『ありがとう』の気持ちでいっぱいです」(東京都内で)=稲垣政則撮影

 妻は3度にわたってがんと闘ってきました。2007年の乳がんは初期のもので、手術も治療もあっという間でした。12年にわかった腹膜がんは、医師からステージ3、5年生存率は3割と診断されました。手術をし、抗がん剤治療の副作用に苦しんでいたところ、今度は言葉が詰まるなどと言い出した。14年10月、脳にも腫瘍が見つかりました。

 妻は70歳を超えてからも、登山ツアーや講演などの仕事を精力的にこなし、海外の山にも登り続けていました。僕は「脳」と聞き、心配でした。歩けなくなったり、しゃべれなくなったりするのか。

 でも、当の本人は「いよいよ頭にきたか」と全く暗さを見せません。これが妻のいいところ。家族にも山の仲間たちにも、心配をかけるようなことは言わない。妻の意思を尊重し、脳のことについては、家族とごく近い人にしか伝えませんでした。

頂上では笑顔

  登山が趣味の会社員だった政伸さんは、山で偶然淳子さんと出会い、1967年に結婚した。淳子さんは75年にエベレストに登頂するが、これに先立つ72年には娘を出産しており、母であり登山家である妻を、政伸さんはこの頃からサポートしてきた。

 妻は放射線や抗がん剤治療を受けながら、仕事や登山を続けました。通院や移動の際は僕が運転し、登山には僕が同行することが増えました。車は後部座席を倒してエアマットと布団を敷き、すぐ寝られるようにしていました。

 家では僕が炊事や掃除、洗濯をしました。妻は薬の副作用で手足がしびれ、細かい手作業に不便があったからです。料理は僕も登山でこなしてきましたが、妻はいつも隣にいて「そんなに大きく切っちゃダメよ」とうるさく口を出してきます。おかげで腕は上がりましたね。独立した子ども2人も、仕事の合間を縫って病院に付き添うなど支えてくれました。

 妻は治療よりも、仕事などのスケジュールを優先します。予定表はいつも真っ黒でした。

  人前では変わらず明るくしていた淳子さんも次第に体力が落ちていった。帰宅すると、「足が鉛みたいに重い」と漏らし、すぐにソファで横になる――。そんなことが増えた。

 僕たち家族が体調を心配し、「無理はしない方がいい」「仕事量を抑えたら?」と言うと、妻は「好きでやっているのに、なんで私のやりたいことをとっちゃうの」と怒りました。

 常日頃、「病気になっても、病人にはなりたくない」と口にしていた妻です。僕たちは、がんになっても好きなことをやらせてあげたい、できる限り力になろう、と決めました。これまでもずっと妻の挑戦を応援してきたしね。

 指先のしびれで靴ひもも結べなくなると、妻が山登りをするのに僕のサポートは欠かせなくなりました。そんなしんどい体でも、頂上に立ったら妻は笑顔になります。山がほんとに好きなんだ、山から元気をもらっているんだ、と感じました。

抗がん剤をやめ

  2016年5月、一緒にインドネシアのクリンチ山に登った。最後の海外登山。この後、2人は「残された時間を日常生活にあてよう」と抗がん剤治療をやめた。7月には東日本大震災で被災した高校生たちと富士山頂を目指した。福島県出身の淳子さんが「総隊長」となり毎年計画していた。

 入院して胸にたまった水800ccを抜いた翌朝、病室から登山口に向かいました。「一歩一歩登っていけば、必ず頂上に着きます」と生徒たちを励まして一緒に登り始めましたが、途中足が上がらなくなった。「これ以上迷惑をかけられない」。妻は自分で断念しました。パンパンの足で、ほんとによく頑張った。

 10月にはホスピスに入りました。ある日、ベッドに寝たまま、原稿用紙にメッセージを書いてくれました。

 「お父さん! だんだん弱ってきて、よくしゃべれなくなってもかんべんしてね。おこらないでよ。私もやさしく、話したいけどすみません。気持は、あるけど、出来ない。お父さんの、やさしい顔が、うれしいよ。」

 もう声は出なくなっていました。筆談ではなかなか気持ちが伝わらず、2人ともイライラしていたかもしれません。常に相手を気遣う妻らしい言葉がうれしかった。

 6日後、妻は静かに息を引き取りました。「あー、面白かった。やるだけのことはやったぞ」という顔をして。

 今も車に乗ると、ふと、「いないんだな」と思うことはあります。でも、ふさいでなんていられない。「何もたもたしてんの。前へ前へ」。妻に怒られそうでね。(聞き手・古岡三枝子)

  たべい・まさのぶ  1941年、群馬県生まれ。67年に結婚。本田技研工業に勤めながら、マッターホルン北壁登山、50ccバイクでの北米大陸横断を果たすなど、アウトドアの活動歴が豊富。2001年に定年退職。「てっぺん 我が妻・田部井淳子の生き方」(宝島社)を今月出版する。

  ◎取材を終えて  「治療に専念すれば、あと1、2年長く生きられたかもしれない。でも、これでよかった。1日を120%で生きたことを表彰してあげたいよ」。政伸さんはそう語り、優しく笑った。後悔はないという。山が大好きな淳子さんを理解する夫だからこそ、こんなふうに言えるのだろう。妻の挑戦を支え続け、共に歩み、楽しんだという夫の生き方もまた、妻が成し遂げた世界的な偉業と同じぐらい尊いものに思えた。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

kea_117

ケアノートの一覧を見る

最新記事