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ケアノート

闘病記

[松浦晋也さん]一人で介護、限界だった

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気付いたら母に手が出て

 宇宙開発分野での著作が多い科学ジャーナリストの松浦晋也さん(55)は今年初め、認知症の実母(83)をグループホームに入所させました。一人で介護を続けていましたが、トラブルが次々と起こり、追い詰められたそうです。「一人では無理だと気付くのが遅れ、母にも苦しい思いをさせてしまった」と振り返ります。

認知症と診断

[松浦晋也さん]一人で介護、限界だった

「情報が集まる地域包括支援センターを介護に利用しない手はない。公的制度を利用することである程度、生活を立て直せた」(東京都内で)=大石健登撮影

 2014年12月、小惑星探査機「はやぶさ2」の打ち上げを取材するため、私は鹿児島県の種子島宇宙センターにいました。そんな私に母が電話してきてこう聞くのです。「何時に帰ってくるの?」

 こんなに状況がわからなくなっているとは驚きでした。父はすでに亡くなっていて、独身の私は神奈川県の実家で母と2人で暮らしていました。種子島に仕事で来ていることは、もちろん母も承知していたはずです。

 母は積極的な性格で、合唱グループで歌ったり太極拳を習ったりして、楽しそうに暮らしていました。確かに様子がおかしいと思うこともありました。預金通帳があるのに「見つからない」と言い出したり、片づけができなくなったり、ガスを空だきしたり……。それでも、いつまでも元気だと思いたくて、なかなか現実を受け入れられないでいました。

  母を病院に連れて行き、15年2月、認知症と診断された。松浦さんには弟と妹がいたが、弟は仕事が忙しくて身動きが取れず、妹は海外暮らし。介護を担えるのは自分一人だった。この頃の松浦さんには、認知症の診断を受けても公的制度を活用する発想はなかったという。

自身にも幻覚が

 まず頭に浮かんだのが、30年近く前に若かった母が祖父を介護する姿でした。「お年寄りは家族が介護するもの」と思い込んでいました。

 しかし、実家で母と2人で暮らし、仕事をしながらの介護となると、小さなストレスが積み重なっていきます。例えば、私が食事を作ると、大声で「まずい。こんなもの食べられない」と言うのです。家族とはいえ、元気だった頃にはもう少し配慮した言い方ができていたのに。

 テレビショッピングなどの通信販売の番組で買い物をしてしまうのも困りました。届いた商品はしまい込むだけで、使うわけではありません。

 私は帯状 疱疹ほうしん を患い、次第に幻覚にも悩まされるようになりました。私までがおかしくなっているのに気づいてくれたのは弟でした。弟が介護保険制度の手続きに乗り出し、私は、介護が必要な高齢者の相談窓口である地域包括支援センターとつながることができました。

  15年5月、母は「要介護1」の認定を受けた。その後は週2回、ヘルパーが自宅に来て食事や入浴の介助をするほか、デイサービスの利用も始まった。

 介護に家族以外の人が関わる意味を実感したのは、デイサービスのお迎えの時でした。私には「行きたくない」と言い張る母が、スタッフから「行きましょう」と誘われると車に乗るのです。他人には、いいところを見せたくなるのでしょうか。

 しかし、そんな母もその年の夏に転んで左肩を脱臼するなどトラブル続き。「要介護3」になりました。翌16年の夏頃には足腰が弱ってトイレの失敗も増え、私は取材にも出かけづらくなりました。仕事がままならなくなり、こうしてまた、少しずつ精神的に追い詰められていったように思います。

 昨年11月、母が台所を引っかき回すようになりました。「おなかが減ってたまらない」と言うのですが、きちんと3食食べています。冷蔵庫から出して散らかした冷凍食品や、こぼしたご飯を片付けるのは私です。度重なるうちにイライラして、気づいたら手が出てしまっていました。母も私のことをぶち返してきました。とても弱い力で……。

 その時の私は感情も何もなくなっていたようですが、心が落ち着くと、ため息が出てきました。そして、とめどなく涙があふれてきました。

 ケアマネジャーに打ち明けると、「あなたが限界だということです」と言われました。これ以上母と一緒にいたら、また理性を失ってしまうかもしれないと思いました。

周囲に相談を

  松浦さんは母を施設に預けることを決めた。弟や妹と施設を見学し、今年1月、母を入所させた。

 母を施設に入れてから、しばらくは何もする気になれませんでした。その後、少しずつ体力と気力が戻り、しっかり仕事しなければと思えるようになりました。なにしろ、母が入所した時には、ろくに仕事ができていなかったので、収入がほとんどない状態でしたから。

 母には週に1度、会いに行きます。「家に帰りたい」と言うので、次の正月は実家で過ごせたらいいなと思います。体調などいろいろな意味で難しいかもしれませんが。

 母を施設にと決めた時、ケアマネジャーに「またお母さんに優しくできますよ」と言われたことが忘れられません。介護に直面したら、一人で抱え込まずに周囲に相談し、私のような失敗をしないでほしいと思います。(聞き手・福士由佳子)

  まつうら・しんや  1962年、神奈川県生まれ。出版社記者を経て、フリージャーナリスト、ノンフィクションライターに。主に航空宇宙関係の取材・執筆活動を続ける。「はやぶさ2の真実 どうなる日本の宇宙探査」「恐るべき旅路 火星探査機『のぞみ』のたどった12年」など著書多数。

  ◎取材を終えて  「私の介護体験は失敗でした」と松浦さん。もっと早く異変に気付き、一人で抱えず、公的制度を使えていたら……と言うのだ。しかし、介護に直面する人の多くは孤独な初心者だ。仕事ができず、収入が減り、頼る人もなく、精神的に追い詰められた息子を、誰が責められよう。施設に入った母親にもわかっていたのではないか。今、母親が「家に帰りたい」と言うのは、あの時の思いが伝わっていたからだと思う。

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