在宅訪問管理栄養士しおじゅんのゆるっと楽しむ健康食生活
医療・健康・介護のコラム
大切な人と考えたい「胃ろう」について
お正月やお盆、ゴールデンウィークになると帰省される方が多いでしょう。私も年に3回の長期休暇に、家族を連れてなるべく両親に会いにいきます。結婚して10年が 経 ちますが、実家に帰ると「妻や母」の自分から「娘」の自分へとシフトできます。
帰省すると、いつも 美味 しい食事が準備され、ふかふかの布団が敷かれています。大人になっても、「娘」でいられる実家は本当にありがたいものです。
そんな楽しい親子水入らずの時間に、私は両親に少し酷な質問を投げかけます。
「もし病気で口から食事を取れなくなって、胃ろうや点滴をしないといけなくなったら、どうする?」
久しぶりに再会した親にそんな質問をぶつけるなんて、と思われるかもしれません。が、日々在宅医療の現場で、「医療の決断」を迫られる患者さんを見ていると、確認しておかずにはいられないのです。
両親はこう答えました。
「そこまでして生きなくてもいいから、自然に死なせてほしい。いつでも死ぬ準備はできている。幸せな人生だったと思うし、悔いはない。私たちがいなくなったあとも、きょうだいで力を合わせて仲良く暮らしていってね」
両親の率直な思いを受け止めながら、「そこまでして」と「自然に」という言葉に、違和感を覚えました。
「そこまでして」というのは、「胃ろうや点滴までして」という意味ですが、世の中には「胃ろうや点滴をして生きている人」がたくさんいらっしゃいます。そのような方に、同じせりふを言えるでしょうか。その姿は、明日の自分かも知れないのです。
私は、もし両親に胃ろうなどが必要な状況になった場合、本人に判断できる能力があり、かつ「少しでも長く生きられるなら生きたい」と思うなら、その気持ちを最大限に尊重したいと思っています。実際にそのような状況にならないと判断は下せません。私が水入らずの時間でもこうしたことを持ち出すのは、本人に判断できる能力がない場合にあわてることのないようにするためなのです。
これまで訪問してきた患者さんの中にも、「胃ろうをつけるかどうか迷った」という方が多くいらっしゃいました。
中には、医師から「もう口から食べるのは危険です。飲み込む力がなくて窒息することもありますから、どうしても食べるなら、命がけのつもりで食べてください」と宣告され、悩みぬいた結果、胃ろうをつくった方もいます。
その後、退院してから「命がけ」でプリンやアイスクリームを食べていたところ、うどんを食べられるまでに回復し、通院時に病院の食堂でうどんを食べているのを見た主治医に、「うどんを食べられるのですか!?」と仰天された方もいます。この方の場合は、一時的に胃ろうを使うことになっても、食べるための訓練を行えば再びその能力を取り戻すことができた事例です。食べるための摂食訓練を懸命にしても口から食べることはかなわず、最終的には胃ろうからの栄養のみになった方もいました。
経口摂取は難しいけれど、腸など消化器の機能に問題がない方にとって、胃ろうが優れた栄養補給法であることは分かっています。在宅医療においても管理しやすいので、2000年ごろから日本で普及し始めました。しかし、現在は胃ろうを「無理な延命行為だ」という意見もあり、今も議論は続いています。
これまで在宅医療で関わった患者さんを見ても、胃ろうを選択する理由は人それぞれであり、一概に胃ろうを「無理な延命行為だ」という論調には賛成できません。しかし、私の両親が望むように、「最期は自然に」と願う方も多いのです。では、「自然に逝く」というのはどういうことなのか。それも家族でしっかりと話し合っておくべきだと思います。
たとえ口から食べられなくても、在宅医療を受け、胃ろうからの栄養を取りながら充実した人生を生きている方を、私は何人も知っています。一方、重度認知症の方の場合は胃ろうなどの経管栄養法を行っても、余命が延びるというデータはないとの報告もあります。
患者さんが必要な栄養を確保できるよう、胃ろうからの栄養量と自分の口から取れる栄養量を計算するのも管理栄養士の仕事です。その方の食べられる能力や飲み込む力に合わせた食べもので美味しい食事を味わってもらい、残りの栄養分は胃ろうからの注入などで補強するお手伝いをします。人生のどのようなステージにあっても、一人ひとりの置かれた生活環境に合わせた栄養を提案するのです。
自分の身に何かが起きたら、判断を下せない時もあります。自分の治療を決められないのはつらいことですが、代わりの判断を委ねられた家族も苦しむことになります。大切な人だからこそ、元気なうちから、「もしもの時」について話し合っておくことが大切だと思います。
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