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原記者の「医療・福祉のツボ」

コラム

ひとりぼっちにしない――下関駅を焼失させた男性の社会復帰

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ひとりぼっちにしない――下関駅を焼失させた男性の社会復帰

シンポジウムの壇上で話す奥田さん(左)と津田さん(早稲田大で)

 2006年1月に山口県のJR下関駅が全焼した放火事件をご記憶でしょうか? このコラムでは 「貧困と生活保護(38)人を死なせる福祉の対応(上)」 の中で、福祉事務所の冷たい対応が事件を招いた事例のひとつとして取り上げました。

 事件を起こした男性は、軽度の知的障害があり、過去に放火を繰り返しては服役していました。しかし16年6月に刑務所を仮出所してからは、北九州市のNPO法人「 抱樸(ほうぼく) 」の理事長で牧師の奥田 知志(ともし) さん(53)の支援を得て、安定した生活を送っています。

 男性はこのほど、東京の早稲田大学で開かれたシンポジウム「罪を犯した人の社会復帰を支える」(東京社会福祉士会主催)に、奥田さんとともに登壇しました。

 「ひとりぼっちはいやだった」「今は毎日楽しい」と彼は語ります。

 貧困や刑事事件の背景に知的障害のあるケースが少なくないこと、経済的困窮に加えて「社会的孤立」が福祉の重要な課題であることを、浮き彫りにしています。

前科11犯の素顔は……

 下関駅の事件を含めて前科11犯。そう言うと、とんでもなく凶悪で怖い人物というイメージを抱く人が多いでしょう。

 しかし、登壇した津田久さん(85)(仮名)は、小柄なおじいさん。どちらかというと、弱い感じです。三つぞろえの背広にスニーカーという少々ちぐはぐなスタイルで、時々はにかみながら笑顔を見せました。奥田さんと一緒に生まれて初めて飛行機に乗り、東京スカイツリー、東京タワーを見学したと言い、「東京は良かった」「100歳まで元気に生きたい」と、とつとつと話しました。

 京都で5人きょうだいの長男に生まれた津田さんは、22歳の時に近所の家に火をつける最初の事件を起こしました。以後、出所するたびに短期間で放火事件を起こし、また服役するパターンを重ね、人生のうち50年以上を刑務所で過ごしました。

 最初の事件の後、父親は自死し、他の身内とも絶縁状態になりました。過去の裁判では、何度も知的障害、心神耗弱と認定されていたものの、福祉に結びつくことは、まったくありませんでした。

たちまちホームレス状態

 下関駅の事件に至るいきさつを、奥田さんの調査などをもとに振り返りましょう。

 津田さんが前の事件で4年半の服役を終え、福岡刑務所を満期で出たのは、下関駅事件の8日前の05年12月30日。74歳でしたが、迎えに来る人はなく、福祉につながることもなく、ホームレス状態でした。北九州市へ移動してビジネスホテルやサウナに泊まるうちに、刑務所の作業で得た賞与金約20万円の大半をパチンコなどで使ってしまいます。

 年明けの1月3日、友人を訪ねて福岡市へ歩いて向かいますが、道に迷って警察官に保護されました。カップラーメンなどを警察官からもらい、小倉方面に向かって歩き始めたところ、途中で体調が悪くなり、救急車で病院へ運ばれます。入院にはならず、担当した福津市の福祉事務所は、近くの水巻町までの電車の切符を渡しただけでした。

 1月4日、水巻町を経て北九州市の戸畑区へ。戸畑区役所に相談しましたが、福祉の対応はなされません。その後、スーパーで万引きして戸畑警察署へ連行されたものの、逮捕はされず、警察官に駅まで送られました。それからは市内で野宿です。

 1月6日、再び食料品を万引きし、自分から店員に申し出て、小倉北警察署へ。今度も逮捕はされず、警察官に連れられて小倉北区の福祉事務所へ。そこで「刑務所を出たけれど、住む所がない」と、刑務所職員から教わった生活保護の相談をしました。ところが「定まった住所がないとダメ」と担当者から相手にされず、出身地の京都へ行くよう言われて、下関駅までのJR回数券(270円)と下関市役所までのバス代(190円)を渡されました。

 下関駅に着くと、もう夕方。駅の構内で過ごしていたところ、深夜になって警察官から退去させられ、1月7日未明、段ボールに火をつけました。刑事裁判では「刑務所に戻りたかった」と話しました。

8か所の公的機関と接点があったのに

 保護観察のつく仮出所と違い、満期出所は更生保護による支援が乏しかったのですが、津田さんの場合、役所、警察、病院とたくさんの接触がありました。しかし誰もまともに手を差し伸べなかったのです。生活保護を受ける道も、福祉事務所の職員にかわされました。本人ははっきり語っていませんが、万引きしたのも刑務所へ戻るためだったようです。それでも捕まらなかったこともあり、より重い罪になる放火をしたのではないか、と奥田さんは解釈しています。

 福岡刑務所を出る時、服役中の仲間に「すぐに戻ってくるから」と話していたことも後からわかりました。自分の居場所は社会にない、刑務所に戻るしかない、と思っていた。それがわずかな出所期間をはさんで服役を繰り返してきた津田さんにとって、唯一の現実的な選択肢だったわけです。

誰も迎えに来ないのがつらかった

 ホームレス支援を長年続けてきた奥田さんは、「北九州にいた時に出会っていたら、事件は起きなかったのでは」と思い、事件の翌日に下関署へ駆けつけました。その時は会えませんでしたが、起訴後の1月30日に拘置所へ出向いて津田さんと面会しました。こんなやりとりをしたそうです。

奥田「何で火をつけたんですか?」

津田「寒くて、行く所がなかった。食べ物もない。刑務所に帰りたかった」

奥田「本当に寒かったね。しかし、どんな理由があっても放火はだめです」

津田「申し訳ありません」

奥田「出所したら迷惑をかけた方々に、私と一緒に謝罪に行きましょう。約束できますか?」

津田「約束します」

奥田「なぜ、放火ばかりするのですか?」

津田(自分のおなかのやけど痕を見せて)「小学生の時、畑の草抜きをしろというお父さんの言いつけを守らず、隣の子と遊んでいました。夜中の2時ごろ、お父さんに起こされ、風呂のたき口に連れて行かれ、火のついた (まき) をおなかに押しつけられました。その時の傷が今も残っています。あれからお父さんと火を恨むようになりました」

奥田「それは大変でしたね。そんなことをされると傷ついたでしょうね。でもね、火をつけられて嫌な思いをされたあなたが、他人の家に火をつけたらだめですよ」

津田(黙って聴いている)

奥田「あなたの人生で最もつらかった時はいつですか?」

津田「刑務所を出た時に誰も迎えに来なかった時です」

奥田「ならば、今度の出所の時には、必ず私が迎えに行きます」

津田(おじぎをする)

奥田「あなたの人生でいつが一番良かったですか?」

津田(しばらく考えて)「やっぱり、お父さんと暮らしていた時が一番良かったなあ」

奥田「でもお父さんは、ひどいことをした人じゃないですか。それでもお父さんが良いんですか?」

津田「ひとりよりも、あの時の方が良かったです」

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原昌平20140903_300

原昌平(はら・しょうへい)

読売新聞大阪本社編集委員。
1982年、京都大学理学部卒、読売新聞大阪本社に入社。京都支局、社会部、 科学部デスクを経て2010年から編集委員。1996年以降、医療と社会保障を中心に取材。精神保健福祉士。社会福祉学修士。大阪府立大学大学院客員研究員。大阪に生まれ、ずっと関西に住んでいる。好きなものは山歩き、温泉、料理、SFなど。編集した本に「大事典 これでわかる!医療のしくみ」(中公新書ラクレ)など。

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